▲戻る / タイトル一覧 / 最新の10件 / ログ検索 / 過去ログ 管理者

       The World According to Goronyan


ナカガワゴロウの世界


ありがとう!! 名古屋のタワーレコード 2010年02月01日(月)

 2006年にぼくのアルバム『そしてぼくはひとりになる』をリリースしてくれたシールズ・レコードの秋山光雄さんから、1月後半にとても嬉しいメールが届いた。
「昨日、名古屋の栄パルコ内にあるタワーレコードに行ったところ、ありがたい事ですが、今になって紹介されていました」という文面で、次の写真が貼付されていた。嬉しい!!
 この「徒然」では、どうすれば写真や画像をアップすればいいのか、いまだによくわからないので、写真は『五右衛門風呂グ』の方にアップさせていただくので、ぜひともそちらを見てほしい。→

http://web.mac.com/gorogoronyan/iWeb/811327D6-EED2-4DF2-A4B2-0A11BAB7C72A/FF31BE77-1933-4423-A9CB-8F0849840A60/6F7F721D-34CD-4BD4-B57E-8FB5F4C1EDC9.html

 それにしても嬉しい。名古屋のタワーレコードのスタッフの方が選んでくださったようで、書かれているコメント、「いろんなものをこの1枚から感じ取ることができました。少しだけ優しくなれたような気がします」というのも、ほんとうに嬉しい。ありがたい。
 これまでどこからもあまり相手にされなかったアルバムだけに、わかってくれる人がいたんだと、ほんとうに嬉しくてたまらない。今すぐ名古屋のタワーレコードに飛んで行って、自分の目でこのディスプレイを確かめ、選んでくださった方を思いきり抱きしめたい気持ちでいっぱいだ。ほんとうにありがとうございます。今度名古屋に行った時は、訪ねて行きますね。ありがとう。

生きづらい現在(いま)に歌がぶつかって行く。 2010年02月01日(月)

「とても面白いミュージシャンがいますよ」と、内山貴夫さんからみほこんこと大原未歩子さんのことを教えられたのは、内山さんが主催者の一人となって駒込にある「駒込大観音 光源寺」で行なった「『STOP! 教育の貧困』フリー・コンサート」の時だった。2009年10月11日のことで、それでぼくはみほこんのことを初めて知った。
 内山さんはその日売店で売られていたみほこんの二枚目のアルバム『派遣切りキリキリマイ』を買ってぼくにプレゼントもしてくれ、「もしかして仕事が早く終わるとみほこんも今日駆けつけてくれるかもしれない」と言ったので、ぼくは楽しみにしていたのだが、残念ながらその日彼女が現われることはなかった。

 内山貴夫さんは、今は定時制高校の先生をしているが、今から30年以上も前の1970年代後半、彼がまだ大学生だった時に、その大学で行われた学園祭に友部正人さんとぼくとを呼んでコンサートをやってくれた。それ以降ずっと、いろんなお便りをいただいたり、ぼくのライブに顔を出してくれたりして、親交が続いている。そして去年10月の「『STOP! 教育の貧困』フリー・コンサート」に、「歌いに来ませんか」と、声をかけてくれたのだ。

 光源寺でのフリー・コンサートの夜は、打ち上げ会場の中華料理屋さんで紹興酒をさんざん飲んで、しこたま酔っ払って帰ったのでバタンキューだったが、翌日内山さんからプレゼントしてもらったみほこんの『派遣切りキリキリマイ』をじっくり聴かせてもらった。
 みほこんはヴァイオリンを弾きながら自作曲を歌うというユニークな音楽スタイルで、そのヴァイオリンもぼくがよく知っているフォークやトラッドのフィドルのスタイルというよりも、クラシック・ヴァイオリンの世界を思い起こさせるものだ。それもそのはずで、アルバムのブックレットのプロフィールを読んでみると、「4才よりヴァイオリンを始め、井上加寿子氏、伊藤耕司氏に師事」とある。でもヴァイオリンを弾いて歌うということで、ぼくはみほこんには明治や大正の自由民権運動の演歌師に通じるところがあるようにも思えた。
 みほこんは、ホームレスと呼ばれる路上のおっちゃんのことを歌い、派遣切りにあった若者のことを歌う。そして2004年の中越大震災の後、復興ボランティアとして現地に通い、今も通い続けているので、そこでの地元の人たちとの交流の中から生まれた歌も歌っている。
 現実を厳しく見つめ、批判精神に満ち、どの曲にも優しさとあたたかさが宿っていて、人を信じる強い思いが伝わってくる。そして何よりもポジティブな力が、その歌からまっすぐ伝わってくるのが素晴らしい。「ギターをバイオリンに持ち替え、性を転じて現代日本に舞い降りたウディ・ガスリー」と、内山さんがみほこんのことを絶賛するのも、なるほどとうなづけた。

 光源寺のフリー・コンサートでは、みほこんが2009年8月の椛の湖フォーク・ジャンボリーに出演して歌い、『週刊金曜日』でも大きく取り上げられたと内山さんから教えられた。椛の湖フォーク・ジャンボリーにはぼくも参加していたのだが、大雨の中ほとんど身動きがとれず、サブ・ステージで歌ったみほこんのことは、その時はまったく知らずじまいだった。
 しかしかつて60年代後半から70年代初めにかけて、中津川で行われた全日本フォーク・ジャンボリーの中心的存在だった笠木透さんは、椛の湖フォーク・ジャンボリーでのみほこんの歌をちゃんと聞いていた。後に『週刊金曜日』の記事を読んでみると、笠木さんが彼女の歌にとても感動したといったようなことが書かれていた。

 内山さんは光源寺のフリー・コンサートの中華料理屋さんでの打ち上げで、かなり酔っ払いながら、みほこんとぼくのジョイント・ライブをやりたいと何度も語っていた。そして11月のあたまには、早々と日程を決めてしまっていた。それが今年1月23日、江古田倶楽部でのライブで、タイトルは『生きづらい現在(いま)を歌う 〜ともに語ろう教育の貧困〜』。
 内山さんはみほこんとぼくとのジョイント・ライブを何度も連続してやりたいと考えていて、江古田倶楽部はその連続ライブの第一回目となる。

 しばらくして出来上がったちらしに、内山さんは次のような文章を寄せていた。
「10月11日、駒込大観音・光源寺さんのご厚意をお借りして、『STOP! 教育の貧困』と銘打ち、フリーコンサートを開催した。“満員御礼”と言えるような人数は集まらなかったが、たくさんの『少数派』の人たちとの出会いがあり、協力してくれたミュージシャンからも熱いエールをもらった。
 政権交代が実現し、何か少しずつ変わるかもしれないという期待の中、『教育の貧困』もまた待ったなしの危機に陥っている。経済的貧困は子どもたちから就学の機会や学力、そして希望を奪い、制度的貧困は学校の中に硬直した単一の価値観を貫徹しようとしている。子どもたちがもがいている。教師たちは苦しんでいる。高等教育を受けられる層が固定化しはじめた。日本が『子どもの貧困大国』『教育の貧困大国』であることは、今や多くの人が知るところとなった。現場には教育のための競争ならぬ、『効率化のための競争』『競争のための競争』が広がっている。東京では『国旗・国歌の強制』で、たくさんの教師たちが処分され、排除され、心を病んでいる。
 すべての決定事項がトップダウンで押し進められようとし、異議を申し立てる者は排除されつつある。そして、結果はいつも個人の身の上にのみ降りかかっているように見える。この現状を打ち破ることは決してたやすくない。しかし、今、それぞれの現場で貧困や差別、教育に取り組む人間が、率直に批判を受け止めながら相互に連携しなくてはならない。そんな場ができればと願いつつ、二人のミュージシャンの力を借りて、小さなコンサートからスタートしたい」

 かくして1月23日の当日がやって来た。嬉しいことに江古田倶楽部は超満員。20人も入ればいっぱいのそれほど広くないお店だが、内山さんの関係者や知り合い、みほこんのファンの人たち、そしてぼくのライブにいつも来てくれる人たちなどで、お店の中はぎゅうぎゅう。嬉しい。満員御礼だ。
 チャージは軽食つまみ付きで2000円、飲み物は一杯500円で帰る時に自己申告という珍しいシステムで、テーブルやカウンターの上には、開場前に内山さんたちがせっせと作ったフランスパンのサンドイッチやチーズ、クラッカーなど、軽食やおつまみがいっぱい並べられている。ぼくも五本ほど用意されていた赤ワインの「王様の涙」を早速ぐびぐびといただく。

 去年12月27日の吉祥寺の「みな李」で行われたコンサートに、みほこんは内山さんと一緒に来てくれ、そこでぼくは彼女と初めて会うことができた。彼女はぼくの演奏を聞いてくれ、ぼくのCDも買ってくれ、コンサートが終わってからは、一緒に飲みながら、みな李で、そして駅前の居酒屋に場所を変えて、いろいろと話をした。年が明けてみほこんは、一枚目のCD『山にかえれば』を送って来てくれた。素晴らしいお年賀だ。

 そしてライブ前日の1月22日の夕方、下北沢の知り合いのお店の開店前の時間をお借りして、ぼくとみほこんは初めて一緒に音合わせをした。5曲ほど、ぼくの曲でみほこんにヴァイオリンを弾いてもらい、ぼくも何曲かみほこんの曲にギターで参加するということになった。
「さあ、やってみましょうか」と、ぼくがみほこんに一緒にやってもらう予定の曲のコード譜を手渡すと、「わたし、コードがわからないんです」という意外な答え。そしてみほこんの曲はと、楽譜を見せてもらうと、これが全部音符で書かれている。まさに楽譜で、コードはどこにも書かれていない。そうか、クラシック育ちの彼女のヴァイオリンは、基本的には音符に合わせて忠実に弾くスタイルだったのだ。
 それでもぼくの歌とギターに合わせて、みほこんは音やメロディを見つけて、見事にヴァイオリンを弾いてくれ、彼女がギターをつけてほしいといった2曲、「路上のおっちゃんに贈るバレンタイン」と「派遣切りキリキリマイ」も、何とかコードを見つけ、みほこんの歌とヴァイオリンとぼくのギターで、とてもいい感じでセッションができるようになった。

 江古田倶楽部でのジョイント・ライブは、内山さんの簡単な挨拶の後、まずはぼくが一人でギターを弾きながら、「イマジン」、「理想と現実」、「自分の感受性くらい」の3曲を歌い、それからみほこんにヴァイオリンで参加してもらって、「へんな夢」、「丸々赤ちゃん」、「お手並み拝見」、「だびよんの鳥」、「ミスター・ボージャングル」、「ビッグ・スカイ」の6曲。
 みほこんは前日のリハーサルの後、一生懸命個人練習をしてきてくれたみたいで、コード譜にはいろんな書き込みがある。どの曲も、歌の心を確実に掴んで、見事なヴァイオリンを披露してくれた。一緒に演奏していて、とても楽しい。
 江古田倶楽部は小さな店だが、P.A.設備が完璧で、マイクもD.I.もたくさんあり、ひかるさんという素晴らしいP.A.ミキサーもいて、安心してすべてを任せることができた。

 休憩の後は、松本てんさんという若い女性シンガー・ソングライターが二曲ほど自分の歌を歌う。内山さんが江古田倶楽部に打ち合わせに来た時、たまたまその時にお店で歌っていたのがてんさんだった。その歌を気に入った内山さんは、「23日歌いに来ませんか」とてんさんに声をかけ、彼女は事情がよくわからないまま、歌いに来たというわけだ。
 みほこんもぼくからすればとんでもなく若い世代だが、もっと若い世代のてんさんともこうやって繋がりが持てるというのは、ぼくとしてはとても嬉しい。語りから歌へと繋がるてんさんの歌のことを、内山さんは「友部さんを思い浮かべるね」と言っていたが、まっすぐに尖っている歌が印象的だった。

 それからみほこんがヴァイオリンを弾きながら自分の歌を歌い始める。一曲一曲、歌う前には丁寧に曲の説明をする。上越大震災の後、復興ボランティアとして被災地の新潟県小千谷市に通う中で生まれた自作曲だけでなく、彼女は永井和子さんの詞に岡田京子さんが曲をつけた「故郷を思う」や笠木透さんの詞に山本幹子さんが曲をつけた「あざみの花」なども取り上げて歌った。ジャンルや世代を超え、繋がるべきミュージシャンの輪が、いちばん大切なところでしっかりと繋がっていることを確かめることができた。
 みほこんがソロで5、6曲歌った後、ぼくがギターで加わり、「路上のおっちゃんに贈るバレンタイン」と「派遣切りキリキリマイ」。満員の会場は、一緒に歌う人もいて、熱く盛り上がった。
 みほこんにアンコールが来たのに、あつかましくもぼくが「ミー・アンド・ボビー・マギー」を歌うと、みほこんは一度も合わせたこともなければ、一度も聞いたことがないはずの曲なのに、素敵なヴァイオリンを弾いてくれた。コードがわからない、コード譜を知らないなんて、何のそのだ。素晴らしい!!

 みほこんとぼくとの初めてのジョイント・ライブは、大成功のうちに終わり、内山さんも大喜び。打ち上げの場で内山さんから早くも、次は四月頃、下北沢か阿佐ヶ谷でと具体的な話が飛び出し、これは有言実行の内山さんのことだから必ず実現するはずだ。
 今回来てくださった方はもちろんのこと、次回はもっと多くの人たちに、みほこんとぼくとのジョイント・ライブを見に来てほしい。生きづらい現在(いま)に、まずはどんなに小さくてもいいから風穴をあけようとする動きは、内山さんがちらしに書いた通り、この夜ここからスタートしたのだ。

歌が何処かから来て、何処かへ行く中で歌い続けること。 2010年01月22日(金)

1月16日の土曜日の夜は、両国フォークロアセンターで、マスダ昭哲さんが企画進行役を務めるイベント『Song Workshop 歌は何処から来て何処へ行くのか』のVol.3、特別編に出演した。
 マスダさんは、本好き、活字好きが嵩じてネット古書店の店主となった方で、古くからぼくのことを知っていて、ぼくのライブにもよく来てくださっている。2009年の秋から冬にかけて、オフノートの神谷一義さんが企画したイベント、「講座オフノート 埋み火の記憶を辿る 知られざる『日本フォーク』秘史」や「アーバン・ソング・コレクション2009 オムニバス・コンサート 都市のおと」が豊島区民センターや新宿ゴールデン街劇場で四回行われ、マスダさんはそれに皆勤賞で参加し、その中でぼくとも濃密に接するうち、彼が主宰するワークショップへの出演が決まったのだ。

 ワークショップの会場は両国フォークロアセンター。嗚呼、両国フォークロアセンター!!
 http://homepage3.nifty.com/tokyo-folklorecenter/
 1970年に国崎清秀さんが始めたこの小さなフォークの拠点に、70年代の中頃以降、ぼくはよく歌いに行っていた。しかし80年代に入ってぼくが雑誌の編集の仕事などをし、歌うことから少し遠ざかってしまってからはすっかり足が遠のいてしまい、90年代に入ってまたせっせと歌うようになってからも、また歌いに行く機会には、なかなか恵まれなかった。国崎さんとは、ほかの場所でばったりお会いすることもあったのだが、両国フォークロアセンターでライブをまたやらせてもらうことは、ずっと叶わないままだった。

 それこそ30年ぶりかで足を運んだ両国フォークロアセンター。ぼくがよく歌いに行っていた時は、二階の六畳一間ぐらいのスペースが両国フォークロアセンターで、一階はお蕎麦屋さんだったが、今は一階も両国フォークロアセンターとなっている(正式には一ツ目ギャラリーと呼ばれているようだが)。今回のワークショップは、二階ではなく、お蕎麦屋さんをそのまま居抜きで使った一階で行われる。
 開場前には国崎さんと一緒に二階にあがり、かつてよく歌いに来ていた部屋を見せていただいた。昔とほとんど同じで、部屋の壁やトイレの壁に貼られているポスターやちらしも当時のままで、とても懐かしかった。

 開場は夕方の5時で、開演は6時だったが、5時過ぎからお客さんが集まり始め、開演前には何と満員となる。嬉しい。ワインを持ってやって来てくださった甲府のご夫婦や、富士吉田でぼくのライブをやってくださる、ギャラリー、ナノリウムの中植和彌さん(素敵なフォーク・シンガーでもある)など、遠くから駆けつけてくださった方もいれば、同じ歌い手仲間のさこ大介さん、同じ音楽ライター仲間の青木優さん、高田渡さんのお兄さんの烈さんなど、珍しい人たちが顔を出してくださったかと思えば、いつもぼくのライブに来てくださっている人たちもいて、ぼくとしては嬉しいかぎり。
 両国フォークロアセンター一階の一ツ目ギャラリーは、20人も入れば超満員で、椅子もその数ぐらいしかなく、そんな狭いところと言う人もいるかもしれないが、ぼくとしてはいっぱいの人たちの前で歌えるのがほんとうに嬉しい。気分もめちゃくちゃ昂揚して行く。

 企画進行責任者のマスダさんからは、当日の企画進行書をあらかじめメールしてもらっていた。それによると、まずは館野公一さんが30分ほど歌い、それからマスダさんが聞き手となって、ぼくが関西フォークの話をし、それから休憩をはさんで、ぼくが一時間ほど歌うというもの。
 ぼくとの話の中ではどんなことを聞きたいのか、そして話の流れの中でさわりだけでも歌ってほしい当時の歌はどの曲か、そして後半のライブではどんな曲を歌ってほしいかなども詳しく書かれていた。

 マスダ昭哲さん企画・進行のソング・ワークショップ特別編は、6時ちょっと過ぎに、満員のお客さんを前にして館野公一さんの歌で始まった。
 館野さんはぼくの大好きなフォーク・シンガーのひとりで、これまでにも何度か共演したことがある。彼は自分の十八番の長い物語歌を「語り歌」と呼んでいて、この夜も、「ぶたのごはん」やユージン・スミスのことを歌った「海辺のフォトグラファー」など、名ルシアーの塩崎雅亮さんが作ったシーガルのギターやギブソンの古いマンドリンを弾きながら、語り歌を聞かせてくれ、その見事なストーリー・テラーぶりに聞き手は彼の世界の中にどんどん引き込まれていく。
 館野さんはフリーのライターをしていて、時には主夫でもあるので、もう一曲家事仕事のことを歌った「家仕事」という、ほかの二曲と比べるとうんと短い歌も、マンドリンを弾きながら歌ってくれた。たった3曲だが、それでもう30分。
 館野公一さんとは3月28日に国分寺のgieeというお店でジョイント・ライブをやることになっていて、その時は持ち時間は半分ずつだから、もっとたっぷり館野さんの歌を聞くことができる。ぜひ来てください。実は誰よりも共演者のぼくが館野公一さんの語り歌をたっぷり聞くのを楽しみにしたりしていて…。
(館野公一さんのホームページ http://www.asahi-net.or.jp/~yi7k-ttn/katariuta/
gieeのホームページ http://giee.jp/)

 館野公一さんの歌の後は、マスダさんが聞き手になって、ぼくに関西フォークの勃興時のこと、高石ともやさんとの出会い、高石事務所やURCレコード、アート音楽出版などを手がけ、関西フォークの動きの陰の立役者となっていた秦政明さんのこと、あるいは当時の音楽仲間だった高田渡さんや岡林信康さんのこと、そして1970年代に入ってからの関西フォークの衰退やぼくが被告となった雑誌『フォーク・リポート』のわいせつ裁判のことなど、あらかじめメールで送ってもらっていた質問にぼくが答えるソング・ワークショップが始まった。
 しかし時間は一時間ほどしかなく、マスダさんの質問は結構微に入り細を穿ったりするので、ぼくとしてはできるかぎり丁寧に話をしたが、マスダさんは聞きたいことの半分も聞けなかっただろうし、ぼくとしても言いたいことの半分も言えなかったように思う。
 それでも関西フォークの始まりがどんなだったか、当時の流れや様子を集まってくれた人たちにある程度は伝えられたのではないだろうか。しかし繰り返すが、一時間という時間はあまりにも短すぎる。マスダさんにまた機会を設けてもらって、何度でもたっぷりと話ができたら嬉しい。そしてそれを何かのかたちに纏められたりしたら、とても素晴らしいことになるに違いない。

 10分ほどの休憩をはさんで、8時過ぎからはぼくのライブ。まずは新たに手に入れたばかりのDeeringのギター・バンジョー、B-6を弾きながら、「丸々赤ちゃん」、「お手並み拝見」、「だびよんの鳥」を歌う。ゴールド・トーンのギター・バンジョーも気に入っているが、ディーリングのギター・バンジョーの方がよりバンジョーらしい音が出て、とても気持ちよく歌える。大切に弾き続けたい楽器だ。
 ギター・バンジョーで3曲歌った後は、Haida Gwaiiのギターに持ち替えて、「腰まで泥まみれ」と「カム・トゥ・マイ・ベッドサイド」。このあたりからはマスダさんのリクエストに応じての選曲となる。
 ライブが始まる前に、マスダさんから「タップ・ダンサーの人が来てくれることになっていて、『ミスター・ボージャングル』の時に踊ってもらおうと思っていましたが、嬉しいことに満員でスペースがないから、今夜は無理ですね」と言われたのだが、ぼくは「タップ・ダンサーの人が来ていると思うんですけど」とかまわず呼びかける。すると目の前に座ってぼくの歌を聞いてくれていたバロン中沢さんが立ち上がる。
 せっかく来てくれているのに、絶好の機会なのに、踊ってもらわずに済ませられるかと、ぼくは「何とかスペースを作るから、踊ってください」と、壁際の椅子の上に立ち、それまでぼくが立って歌っていた僅かな場所でタップ・ダンスを踊ってくれるようお願いする。
 椅子の上に立つと、梁のところに貼ってあった今夜のイベントのお知らせの堅い紙がぼくの頭に当って邪魔なので、ベリッと引き剥がす。それでも頭が梁にくっついてしまい、少し前屈みになって歌わなければならない。うーん、厳しい。
 そしてバロン中沢さんにタップ・ダンスを踊ってもらい、館野公一さんにもマンドリンで加わってもらい、「ミスター・ボージャングル」を歌った。この歌をタップ・ダンス入りで歌ったのは初めてで、バロン中沢さんのタッフ・ダンスは、ミスター・ボージャングルことビル・ロビンソンを両国へと呼び寄せてくれ、ほんとうに素晴らしかった。ぼくも思いを込めて、とても熱く歌うことができた。この夜の最高の瞬間だった。

 その後はずっと館野さんのマンドリンと一緒に、「理想と現実」、「イマジン」、「ミー・アンド・ボビー・マギー」の3曲。まったくのぶっつけ本番なのに、館野さんはマンドリンをこれでもか、これでもかと思いきり弾きまくり、「ミー・アンド・ボビー・マギー」のラストでは、ぼくが「ミー・アンド・タテノ・コーイチ」と何度も絶叫し、二人してすごい世界に飛んで行ってしまった。開演前から飲み始めていたおいしい甲府のワインも、熱く盛り上がる上で、とてもいい役目を果たしてくれた。

「ミー・アンド・ボビー・マギー」でぼくは全力を使い果たし、アンコールに応える気力はほとんどなくなってしまい、時間も予定を大幅に過ぎて9時半になってしまったので、みんなで机や椅子を並べ替えて、ワークショップとライブ後に予定されていた懇親会に移る。
 これが会費1000円で、ほとんど飲み放題、食べ放題の素晴らしいもので、みんなで発泡酒ではない本物のビールやおいしい甲府の赤と白のワイン、芋焼酎などをグビグビと飲みつつ、もつ煮や焼きそばなど手作りのおいしいお料理をいただき、隣同士、あるいは大声で遠くの人に呼びかけたりしながら、いろんな話に花が咲き、まさに究極の懇親の集いが11時過ぎまで続いた。それぞれ自己紹介もし合った。
 フォークロアセンターの国崎さんや高田渡さんのお兄さんの烈さんともいろんな話をすることができた。マスダさんはこの夜のためにもつ煮だけでなく、京料理のエビ芋も作って来てくれたのだが、話とワインに夢中になっていて、ぼくはそれを食べそびれてしまった。素晴らしい夜の唯一の失態というか、実に残念なことであった。

 マスダさんからワークショップでどんな話をしたいかメールをいただき、自分でも当時のことを振り返り、あらかじめ整理しておきたいと、古い歌詞カードや楽譜の資料箱を探っていたら、高校生の頃に作った楽譜集が出て来た。
 表表紙も裏表紙もとれていて、中身だけが残ったぽろぽろの楽譜集で、1966年から67年、高校二年生や三年生の時に歌っていた歌の歌詞や楽譜が、20曲ほど書き込んである。懐かしい!!
 その頃ぼくが敬愛してやまなかったフィル・オクスやトム・パクストンの歌を自分なりに訳したものや、当時愛読していた岩波新書の「詩の中にめざめる日本」(1966年出版、編者真壁仁)の中に収められていた詩に曲をつけたもの、それに自分で詞も曲も書いたものなどがある。
 手に取ってページをめくりながら、ギターを手に取り、何曲かは久しぶりに、それこそ40数年ぶりに、ぼそっと歌ってみたりした。マスダさんからは、ワークショップの中で当時の歌をさわりだけでも歌ってほしいとリクエストされていて、そのリクエスト曲の「メドガー・エヴァースのバラード」や「Aちゃんのバラッド」も、楽譜集の中に入っていた。

 43年前のその手書きの楽譜集を見返しながら、ぼくは自分が今もまるで変わっていないことを思い知らされた。何を歌いたいか、何で歌いたいか、どんなふうに歌いたいか、その気持ちや考えは、1966年も2010年の今もまったく変わっていない。
 これはまるで成長していない、まったく代わり映えがしないと嘆くことではなく、むしろそこまで曲げることなく自分を貫いているのかと、誉めてもいいようなことに思える(自分でそんなことを言うのは、ほんとうにあつかましいことだが…)。

 フィル・オクスやトム・パクストンの歌は、「もう戦争には行かない」、「リメンバー・ミー」、「聞こえるのは何だろう」(以上フィルの曲)、「過ぎ去った日々」、「夜が明けたら」(以上トムの曲)など反戦歌が中心で、暗殺された黒人の公民権運動の活動家のことを歌ったフィル・オクスの「メドガー・エヴァースのバラード」もある。
 岩波新書の「詩の中にめざめる日本」の中の詩で曲をつけているのは、ベトナム戦争のことを歌った薩川益明さんの「自由について(の歌)」と、1960年の安保闘争の中で犠牲となった樺美智子さんのことを歌った高橋敬子さんの「前進(貴女がもう笑えないから)」。
 そして16とか17歳の時に自分で書いていたオリジナル曲(!!)は、「浜辺の石」や「乙女の顔」、「坊やおやすみ」、「小さな庭」など、メルヘン調の曲名が目立つ。今見返すと恥ずかしくてたまらないのだが、それでもアメリカのフォーク・ソングに学びつつ、反戦や反差別への思いを、当時のぼくなりに精一杯込めて作ったものばかりだ。

 楽譜集には、どうしてこの歌を作ったのかというぼくのコメントが書かれている曲もある。たとえば「乙女の顔」という歌のところには、「結婚差別にあって自殺した被差別部落の女性の遺稿集『悲濤』を読み、初めて部落なるものの存在を知ったぼく自身の気持ちを歌ったもの」という書き込みがあり、「あの閃光が忘れられようか」という歌のところには、「この歌の『閃光』とは、ヒロシマやナガサキに落とされた原爆の光のことだけでなく、ベトナム戦争でのライフルの煙、その音、リンチで殺されたベトナム解放民族戦線の戦士の胸に突き刺さったナイフ、血の色、竹槍で突き殺された兵隊の裂けた内蔵、戦争の痛ましさすべてなのです。ある人が息子の死を聞いた、そのことを告げに来た人の声を忘れられようか、空襲で殺された母の叫び声を忘れられようか、『戦争』を忘れられようか」、「この歌を聞いて戦争の悲惨さについてみんながもう一度真剣に考えてくれたら、平和への道は縮められるのではないでしょうか」と書いている。

 1960年代後半のあの当時も、反差別やベトナム反戦、それにアメリカの黒人差別のことなど、「ひとごと」、「よそごと」を歌ってどうするんだということをよく言われた。確かに16や17歳で歌っていたぼくの歌は頭でっかちで、中身も薄っぺらくて、夢みたいなことを言っているだけのものだったかもしれない。
 最初は権力を攻撃したり、鋭いメッセージを歌ったり、皮肉たっぷりの歌を歌っていたまわりのフォーク・シンガーたちは、みんな「ひとごと」や「よそごと」を歌うのでなく、「自分のこと」、「自分だけのこと」を歌うようになり、そうした歌がとても持て囃されるようになっていった。
 そして今気がつくと、ぼくは40数年前の歌い始めた頃と、同じ姿勢、同じ志でフォーク・ソングを歌っている。「ひとごと」や「よそごと」を歌おうとするフォーク・シンガーは、ほとんど姿を消してしまっている。1970年代に入って、いわゆる関西フォークの歌い手たちも「自分のこと」を歌うようになり、それはニュー・ミュージックの大きな流れの中に吸い込まれていった。

 しかしぼくは40数年後の今にして改めて思う。「ひとごと」や「よそごと」を「自分のこと」にできなくて、何が愛だ、何がしあわせだ、何が優しさだ、何が思いやりだ。そして誰も歌わなくなってしまったとしても、ぼくだけは「ひとごと」や「よそごと」とされることを「自分のこと」として歌い続けたいと、強く思っている。
 たとえ時代遅れ、化石、頭でっかち、偽善と呼ばれようとも、ぼくは自分の頭と心を激しく揺さぶってくれた、出会った頃と同じフォーク・ソングを歌い続けていく。無器用でもいい。ほとんど顧みられなくてもいい(でも生活はしたいけど…)。1月16日の両国フォークロアセンターの素晴らしい夜の中で、ぼくはそのことを再確認することができた。

 両国フォークロアセンターでのライブの翌日、企画進行責任者のマスダ昭哲さんからお礼のメールをいただいた。
「中川五郎さん、昨晩の両国センター、有難うございました。そしてお疲れ様でした。
 いろんな意味で積年の思いがかなったように思えます。また、当方の不躾な質問にも快くお答え頂き申し訳ありません。
 企画したものが言うのもなんですが、素晴らしいライブとなったかと思います。お客さんも沢山来てくれたし。
本当にご協力有難うございました。まだ夢心地です」
 マスダさんはそう書いて来てくれ、最後は「拙ブログに昨晩のこと早速報告しました。http://masdart.exblog.jp/」で締めくくられていた。

 それで初めてマスダさんのブログの存在を知ったぼくは(それまでチェックしなくてほんとうにごめんなさい)、早速『本の人生 本との人生 末端古本屋雑記帳』というタイトルのそのブログを訪ねてみた。
 そしてぼくは1月16日のソング・ワークシップのために、マスダさんがどれほど真剣に内容のことを考え、そして一人でも多くの人に来てもらえるよう、どれだけ熱心に奔走してくれたのかを知った。12月10日の「うたとは何か 何を唄うか 中川五郎を迎えて考えたい 1月16日のワークショップ開催のための覚え書き」というタイトルの文章では、1月16日のワークショップに向けてのマスダさんの熱い思いが長文で綴られている。
 http://masdart.exblog.jp/13194935/

 恐らく11月の終わりに、両国フォークロアセンターでのソング・ワークシップにぼくを呼ぶことを決めてから、一か月半、マスダさんは東京中をあちこち歩き回り、いろんな人に声をかけ、その努力や熱意のおかげで、1月16日の夜は超満員御礼となったのだ。ほんとうにありがたいかぎりだ。心から感謝します。
 もしかすると数の論理に弱い人は、それで20人ちょっとなのかと嘯くかもしれない。しかしぼくは20人以上の「たくさん」の人に来てもらえたことがすごく嬉しいし、この20数人はとても濃く重く、貴重で大切だと思う。ぼくはこの夜来てくれた人たちに心から感謝する。ぼくの歌に込めた思いがきっと伝わったと信じたい。そしてこの夜を2010年の新たな出発点にして、またこれからも自分のフォーク・ソングをいつまでも歌い続けたい。

 マスダさんのブログを読ませてもらうと、ぼくのことがいっぱい書かれていて、嬉しくも恥ずかしい気持ちになる。特にこれは過大評価しすぎじゃないかと思ったりするところもあるのだが、それでもぼくが今歌で何をしたいと思っているのかを見事に理解してくれていて、それがたまらなく嬉しい。
 もしかして進めたかもしれないぼくの人生の進路を、ぼくが敢えて進まなかったことも理解してくださっていて、このことはこれまでみんなからまったく無視されたり、不思議がられたりするだけだったので、この最大の理解者の出現はほんとうに勇気づけられるし、励みになる。
 ライブの翌日いただいたメールで、マスダさんは「これからもまた何か面白いことができたらと考えています」とも書いてくださっている。ぼくの方でも、またまたぜひ一緒に面白いことを、何度でも、何度でもやりたいと願っている。
 でもお互いからだには気をつけましょうね。

日本無菌化計画 2010年01月10日(日)

 去年の暮れ、12月25日に発売された福音館書店の児童向け月刊誌『たくさんのふしぎ』の2010年2月号『おじいちゃんのカラクリ江戸ものがたり』(太田大輔文・絵)が、発売直後の12月28日に出版元の福音館書店の判断で販売中止になったというニュースを知った。
 そのことを伝えるasahi.comの12月29日の記事によると、「同誌は小学校中学年以上が対象で、2月号は、おじいちゃんが発明した機械を使って孫2人が江戸時代の暮らしをのぞく物語。おじいちゃんは愛煙家という設定で、パイプをふかしながら孫と食事したり、話したりする場面が4回、描かれている」ということで、記事は「発売直後の25日、購読している小児科の医師らから『喫煙を推奨したり、子どもの受動喫煙を肯定したりしているのではないか』などと指摘された。同社は『子どもの本の出版社として配慮に欠けた』として販売中止を決めた」と続いている。

 早速福音館書店のホームページを見てみると、代表取締役社長塚田和敏さんの名前で、「『おじいちゃんのカラクリ江戸ものがたり』についてのおしらせ」というのが出ていて、そこにはこう書かれている。
「『おじいちゃんのカラクリ江戸ものがたり』は、主人公のおじいちゃんがタバコ好きという設定になっており、おじいちゃんがパイプをくわえ喫煙したまま孫たちと同席している場面も複数描かれています。これは、過去と現在をわかりやすい形で関係づける小道具として使用したものであり、喫煙を推奨したり、子どもたちの受動喫煙を肯定したりする編集意図はまったくありませんでした」
 だったらそのまま販売すればいいだけの話で、何の問題もないとぼくは思う。ところが福音館書店の社長の文章は、こう展開する。
「しかしながら、喫煙による健康被害と受動喫煙の害についての認識が足りず、このような表現をとってしまったことは、子どもの本の出版社として配慮に欠けるものでした。深くお詫び申し上げます。つきましては、『たくさんのふしぎ』2010年2月号『おじいちゃんのカラクリ江戸ものがたり』の販売を中止いたします」

 これはおかしい。喫煙を推奨したり、子供たちの受動喫煙を肯定したりする編集意図がまったくなかったのだとしたら、販売中止にする必要はまったくないではないか。しかも社長のおしらせには、作者の太田大輔さんの執筆意図や考え、気持ちなどがまったく無視されてしまっている。
 抗議されたので、この先面倒くさいことになったら大変だ、大事になったら大変だという、出版社の事なかれ主義、穏便第一主義、弱腰がここからは見えてこないか。自分の大切な作品を一方的に販売中止にされて、作者はいったいどんな気持ちでいるのだろう。

 福音館書店におかしいのではないかと指摘したと思える(これって指摘というより、抗議のはずだけど)、小児科医のブログを読んでみると、12月29日に書かれた「憲法の言論・出版の自由とは」というタイトルの文章は、いきなりこう始まっている。
「憲法が禁じているのは政府(またはそれに関連する権力(者)・組織)が出版社や個人に対して出版禁止や言論統制を行うことであり、憲法に違反することが出来るのは政府だけです。この点をはき違えている方が多いことは常々感じていました。(この件に限らず)」
 ? ? ? つまり一個人が、あるいは一般市民が、ある本を販売中止にしたとしても、それは憲法違反にはならないということなのだろうか。そして小児科医の文章はこう続く。
「また、言論・出版の自由とは誰が何を言っても出版してもいいということではありません。当然、公共の福祉に反するものは規制されることになります」
「公共の福祉」、絶対的な言論・出版の自由はない。また出た。思わずぼくは40年近く前のことを思い出してしまった。

 1970年にぼくが『フォーク・リポート』というフォーク雑誌の編集をしていて、そこに「ふたりのラブ・ジュース」という自作の小説を掲載し、わいせつ文書だからと、大阪府警に摘発され、それから刑法175条をめぐって10年近く裁判を闘った時、そこでいつも相手側、すなわち検察官や教育関係者たちが持ち出してきたのが、それらの言葉だった。
 小児科医のブログには、こうも書かれている。
「子ども向けの雑誌として、このような表現は編集段階までに当然配慮されるべきであったはずのものが(たとえば暴力や飲酒などと同様に)、フリーですり抜けて出版され子どもたちの手元に届いてしまうという状況自体が、今の日本のタバコ問題に関する状況を端的に反映したものと言えます」
「福音館書店はこの絵本を子どもに読ませることの悪影響を正しく認識し、販売中止することによる損害を考慮してもなお、子どもの本の出版社としての伝統と信用を守ることを選択しました。その判断に敬意を表します」
 またひとつ、ぼくの裁判の時にさんざん言われた言葉が出て来た。悪影響。
 実はこの小児科医のブログには、『おじいちゃんのカラクリ江戸ものがたり』についてのもっと具体的な文章(それはとても批判的なものなのだと思うが)も書かれていたらしいのだが、それはあっという間に削除され、ブログはコメントを受けつけない設定に変更されてしまったということだ。

 ぼくは『おじいちゃんのカラクリ江戸ものがたり』を読んでいないから、何も言う資格がないのかもしれないが、この雑誌の出版に抗議して、販売を中止させた人の主張は、次のようなものだと理解した。
 喫煙はよくないもの、公共の福祉に反するもので、それを子どもの本で表現するというのはもってのほか、子どもたちに悪影響を与えるから、そんな本は流通させてはいけない。そしてそれは憲法で保証されている言論や出版の自由に抵触することではない。
 でも子どもの本に喫煙の場面が登場するからと、それはだめだと言ってしまえば、小児科医がブログでも書いているとおり、お酒を飲む場面も殴り合いの喧嘩をしている場面も、泥棒が登場する場面も、殺人の場面も、あるいはもっと広げていけば人が愛し合っている場面、すなわちセックスをしている場面も登場させてはいけないことになってしまう。それでも戦争を描くことは許されるのかもしれない。
 以前、黒人の可愛い子どもが主人公の絵本が、その呼び名が問題になって、販売中止になったことがあったが、今回の『おじいちゃんのカラクリ江戸ものがたり』の販売中止は、その時と同じような、短絡的でヒステリックな反応がもとになっているようにぼくには思える。

 現実の世界を見れば、誰もが人のことなどおかまいなしにタバコを吸い、子どもたちが受動喫煙の被害にあっている。いまだに歩きながらタバコを吸っている人もいる。それらを何とかしろと言うなら、ぼくもよくわかるし、大賛成だ。タバコを吸う人は、もっとまわりの人たちのことを思いやってほしい。
 しかし子どもの本に喫煙のシーンが登場するから販売を中止せよと抗議するのは、まったく次元の違う話のようにぼくには思えてならない。

 これはぼくが自分の裁判の中でも主張したことだが、そもそも本というのは、自分の自由意志で手に取って読むもので、誰に強制されるものでもない。いやだったら読まなければいいし、拒絶する自由がある。
 いやだと思っても、読みたかったら、そこからは自分の判断で、自分の責任で読み進めばいい。この本はよくないか、読まない方がいいのか、自分で判断するしかないのだ。
 もちろん子どもの本の場合は事情が少し異なるだろう。しかし今回のような小学校中学年以上を対象としている雑誌で、喫煙のシーンが描かれているからといって、それで子どもたちが悪影響を受けるのだろうか? それでタバコを吸ったり、吸いたくなったりする子どもが増えるというのだろうか? それって子どもに対するあまりにもひどい侮辱ではないだろうか? 子どもは何もわかっていないというのか?
 それにもっと小さい子どもの本の場合は、その本を子どもに与える親が、この本は読ませてもいいのか、読ませない方がいいのか、それぞれに判断すればいいだけであって、それだけのことではないだろうか。仮にその本がよくないからとある人が判断したからといって、それを販売中止、要するに世の中から抹殺してしまうというのは、あまりにも乱暴で短絡的で、人々の自主的な判断が何も育たない、あまりにも危険な対処方法だとぼくは思う。

 タバコやお酒は悪いもので、子どもに悪影響を与えるばい菌のような存在だと考える人がいたってぼくはまったくかまわない。暴力やセックスも子どもにとってはばい菌だと考える人もいるだろう。ぼくは暴力はどんなかたちであれ反対だけど、セックスはばい菌のようなものだとは絶対に思わない。
 たとえそれらがばい菌のような存在だとしても、子どもたちはそういうばい菌にまみれ、ばい菌と闘いながら、いろんなことを考え、いろんな判断をし、いろんなことを身につけ、時にはヘマや失敗もしながら、育っていき、自分というものを獲得していくのだとぼくは思う。
 まわりはばい菌だらけだからと、子どもたちを無菌室に放り込むようなやり方は、その時は安全なのかもしれないが、決して子どもたちのためにはならないのではないだろうか。

 ぼくはタバコが大嫌いだし、そばで吸われたりすると不快でいらいらしてしまう。だけどだから禁止すればいいとは、絶対に思わない。吸いたい人は吸えばいい。まわりのことを考えて、吸えばいい。
 タバコを追放しても、世界は無菌にならず、もっと恐いことになるかもしれない。ぼくはタバコを吸う自由がある世界の方がいい。
 それが子どもの本に喫煙の場面が登場しているからというだけで、その本が販売中止に追い込まれてしまうとは…。ぼくに言わせれば、子どもの本の出版社の伝統と信用はいったいどこに行ってしまったのかと、嘆かわしいかぎりだ。
 こうして世の中は恐ろしい無菌の世界に近づいて行くのだろうか。そんなことをすれば菌はどんどんひどいものになっていくというのに。

素敵な歌を聴いた後で。 2010年01月09日(土)

 2009年の暮れも押し迫った12月28日の午後は、有楽町のよみうりホールに加藤登紀子さんの「ほろ酔いコンサート2009」を見に行った。

 加藤登紀子さんとは40年ほど前、1970年頃にちらっとお会いしたことがあるだけで、それから長い間、ほとんど接点はなかった。もちろん加藤さんが歌い始めた頃から、その存在はよく知っていて、その歌に耳を傾けていたし、どんな活動をされているのかにもぼくは関心を抱き続けていた。
 そんな加藤登紀子さんに突然お会いして話をするようになったのは、2009年10月のことだ。加藤さんは10月に1968年をテーマにした『1968』という4曲入りのCDを発表し、それに合わせてSNS1968というソーシャル・ネットワーク・サービスも立ち上げることになった。その一連の動きの中で、加藤さんがぼくに連絡を下さったのだ。

 ぼくが1969年から70年にかけて何度かコンサートで歌ったことのある「10月21日の夜に」という長い歌が加藤さんの印象に強く残っていて、その歌のことを加藤さんは詳しく知りたがっていた。また世代を超えて、1968年について語り合う、SNS1968にもぜひ参加してほしいと、お誘いをいただいた。そして登紀子さんの事務所の方からは、『1968』のCDも送っていただいた。

 加藤登紀子さんの新曲「1968」と「HERO」、ベトナムのシンガー・ソングライター、チン・コン・ソンの「美しい昔」、そして「ひとり寝の子守唄」の4曲が収められたそのCDをぼくは早速聴かせてもらい、次のような返信をした。
「『1968』のCDを聴かせていただきました。多くの人たちが、1968年やあの頃のことを、ただ懐古的に、ノスタルジックに振り返っている中、1968年を大きな変化の始まりの時と捉え、それが今に続き、今を支え、明日をも拓いていくという、ポジティブなメッセージが伝わって来る歌で、
すごく嬉しかったです。
 ヒーローというのは、『英雄』なんかじゃなく、自分の考えを持って、自分の生き方を貫き、自分を見失わないでいる普通の『カッコいい』人たちのことだとぼくも思います。
 とても共感させられ、励まされ、勇気づけられるアルバムでした。ありがとうございました」
「60年代の終わりにぼくが歌っていた「10月21日の夜に」を登紀子さんが覚えていてくださったとは、驚きであり、感激です。
 当時はほとんど相手にされなかった曲で、誰もがプロテスト・ソングや反戦歌を歌わなくなっていく中、何とか思いを伝えたいと作ったものでした。
 作ったのは1969年の後半で、初めて歌ったのは、確か1970年1月の東京の都市センター・ホールでのインターナショナル・フォーク・キャラバンのメッセージ・コンサートの時だったように記憶します。またその年の4月の音楽舎主催の大きなコンサートでも歌ったと思います。
 この歌は新宿などがすごいことになった1968年の国際反戦デーでなく、仲間が分裂したりして、力が弱まりかけた69年の国際反戦デーのことを歌にしたように記憶します。68年の時は、ほんとうにもうすぐ革命が起こるというか、日本が変わる熱い予感を感じ、すごく高揚していましたので」
 そして登紀子さん宛のメールには、「10月21日の夜に」の歌詞も書き加えたのだが、40年前に作った歌詞を改めて書いてみると、青臭く、とても観念的で、書いているうちにめちゃくちゃ恥ずかしくなってしまった。

 そんなわけで加藤登紀子さんとぼくとの交流(というのも大袈裟か)が始まり、まずは10月19日に新宿のタワー・レコードで行われた「1968」発売記念インストア・ライブに出かけ、そこで加藤さんからいきなりステージに呼び出されて「10月21日の夜に」の話をし、その後の交流会にもあつかましく参加してしまった。
 また10月の終わりには加藤登紀子さんのオフィスに出かけて行き、登紀子さんのファンクラブ、登紀子倶楽部の会報『登紀子倶楽部通信』の「Tokiko Friends」という連載の対談ページのために、二人で一時間ほど1968年当時のことを話し合ったりした。
「10月21日の夜」の出だしの歌詞は、「10月21日の夜にぼくは/小さなホテルで恋人と抱き合っていた」というもので、登紀子さんはその「小さなホテルで」というのを「ラブ・ホテルで」と覚えていて、本当は「小さなホテルなんですけど」と伝えると、「だって同じ意味でしょう」と笑われてしまった。確かにそうだけど…。

 そして12月の終わり、加藤登紀子さんにとっては年末恒例の「ほろ酔いコンサート」の東京公演が有楽町のよみうりホールで三日間開かれ、それにも招待していただき、ぼくは最終日の28日の公演を見せてもらった。ぼくにとっては「ほろ酔いコンサート」初体験だった。
 コンサートは5人編成のバンドと共に、加藤登紀子さんの代表曲や新しい曲がたっぷり歌われていくという内容で、特に二部では「1968年」に焦点を合わせ、レナード・コーエンの「哀しみのダンス」やロシア民謡をもとにした「悲しき天使」、「Hey Jude」や「百万本のバラ」、そしてもちろん「1968」などが、組曲のようにして歌われた。
 加藤登紀子さんの歌に宿っている大きな力、歌に込められた強い思いや熱いメッセージがしっかりと伝わって来るコンサートで、終わった時には、「よーし、ぼくも頑張るぞ、これからもいい歌をいっぱい歌うぞ」と、気分が昂揚し、明日に向かってとてもポジディブで明るい気持ちになっていた。

 よみうりホールというのは、かつての有楽町そごう、今はビック・カメラの7階にある古いホールで、エレベーターの数も少なく、終ると見に来ていた満員のお客さんが、一気に階段を駆け下りることになる。ほんとうにたくさんの人たちなので、降りる人たちで階段がいっぱいになってしまう。ぼくもその人たちにまじって、7階から1階まで階段を歩いて下りた。
 階が下がっていくにつれて人の数も少しずつ減っていったのだが、まだ下りる人たちで階段いっぱいになっていた6階か5階のあたりで、階段を上ってお目当ての売り場に行こうとしている一人の男性がいた。階段は下りる人たちでいっぱいなので、流れに逆らうというか、その人たちの波をかき分けて、無理やり上っていくしかない。
 そして下りる人たちは、上ろうとするその人ために道をあけてあげればいいのに、ぼくの前にいたぼくと同世代と思える男性は、上ろうとするその人を阻止するような感じで、強引にぶつかって、押しのけようとしたのだ。もしかすると降りてくる人たちのあまりの多さに、階段を上ろうとするその男性は何か悪態のようなものをついたのかもしれない。

 しかし、それにしてもと、ぼくはその光景を見て愕然としてしまった。少なくともぼくは加藤登紀子さんの素晴らしい歌を今生で聴いてきたばかりで、気分は昂揚し、心の中はとてもあたたかく、優しくなっている。誰だってそうなっているはずだ。それが歌の力というものだとぼくは信じている。
 それなのにその直後に、そんな乱暴な行為に出ることができる人がいるというのは、ぼくにとっては本当にショックだった。あんなにいい歌をみんなで一緒に聴いて楽しんで来たばかりなのに、何でそんな荒々しい気持ちになれるのかと、ほんとうに悲しくなってしまった。

 話はどんどんずれていくが、駅の階段など、上りは右、下りは左といったように書かれていても、そんなことまったくおかまいなしに、自分の行きたい側を上ったり下りたりする人たちがあまりにも多すぎる。
 別にぼくはマナーを守れとか、ルールを守れとか、道徳的なことを偉そうに言うつもりはまったくないが、誰もが好き勝手に階段を上り下りしているあの光景は、とにかく自分のことしか考えない、人のことなんてどうでもいいと思っている、今の人たちのありようを見事に象徴しているようにぼくには思える。
 極端なことを言えば、マナーとかルールとか、道徳とか常識とかそんなことはどうでもいい。自分のことだけでなく、絶えず人のことも考えるというのは、知恵であり思いやりであり、優しさなのだとぼくは思う。

 よみうりホールの階段でも、上ろうとしていたあの男性は、下りてくる人の波に押されて、とても困っていた。その時、その人のために自分がよけて、階段を少しあけるのではなく、その人を押しのけてしまうというのは、いったいどういうことなのだろう。しかもいい音楽を楽しんで来たばかりだというのに…。
 加藤登紀子さんの歌やコンサートが素晴らしかっただけに、ぼくはとてもショックで、悲しく、残念な気持ちになってしまった。

熱い唄に突き動かされ 2009年12月18日(金)

 12月13日は犬山駅から9時37分発の名鉄の特急に乗って終点の豊橋まで。そこでJR東海道線に乗り換え、浜松駅には11時38分に到着した。駅にはいとうたかおさんが愛車のクヌルプ・ボーンフリー号で迎えに来てくれ、この日のライブの会場へと向かう。
 13日の夜は浜松市中区天神町にある浜松酒造の天神蔵でのコンサート。いとうたかおさんが2004年4月からFMハロー (76.1MHz・浜松エフエム放送)でやっている番組『いとうたかおの小さな唄に手を引かれ』プレゼンツのライブで、今年で五回目になる。
 FMハローの電波が届く範囲は、浜松市を中心に、西は愛知との県境、東は掛川市、北は天竜市あたりまでなので、東京に住んでいるぼくは日曜日の昼12時30分から30分間オン・エアされているいとうさんの番組を聞くことができないが、番組が5年半以上続いていることは素晴らしいし、毎年番組がプレゼントするコンサートが開かれているというのも、とても素晴らしいことだ。

 天神蔵とは蔵元の名前で、その敷地には明治時代に建てられた酒蔵の明治蔵、ビール工房、日本酒醸造所の昭和蔵、吟醸仕込み蔵の平成蔵などがある。明治蔵は今は梁組みなどはそのままに、一階がレストランとショップ、二階がギャラリーに改装されていて、そのレストランがこの夜のコンサートの会場となる。
 今年のFMハロー『小さな唄に手を引かれ』プレゼンツ・コンサートの出演者は、ホストでもあるいとうたかおさんにほぼレギュラーで参加している奈良からやって来たラップ・スティール・ギタリストの長田タコヤキさん。ぼくの大好きな三人組ロックン・ロール・バンド、マーガレットズロース。そしてぼく。大阪からは舞台監督で福岡風太さんが駆けつけ、東京からはP.A.で加納・フランシス・厚さんが駆けつける。何て豪華なイベントなんだ。

 コンサートが始まる7時頃には、明治蔵のレストランの客席は満員。さまざまな世代の人たちが集まってくれている。二階に用意してもらった控室から一階へと降りる階段の途中から客席を見渡し、今夜はすごく素敵な夜になる予感が…。出演者のみんなはリラックスしながらも、やる気満々、秘めた熱気が伝わってくる。
 コンサートはまずはいとうたかおさんとタコヤキの二人での演奏から始まり、3曲目からはマーガレットズロースが加わって2曲。若きマーガレットズロースと一緒に(めちゃくちゃ若くはないけど、今夜のラインアップではすごい若手だ)、汗を撒き散らしロックするペケ(いとうたかおさんのニックネーム)は、ほんとうにかっこいい。そしてマーガレットズロースの演奏も、ペケの熱い歌やタコヤキの激しく切り込むラップ・スティール・ギターに煽られて(というかお互いに刺激し合って)、すさまじいものになって行く。
 それからマーガレットズロースの演奏に移って6曲。粕谷裕一さんのドラムスと岡野大輔さんのベースのリズム・セクションがゴンゴンとぼくのはらわたを直撃してきて、平井正也さんは高い声で空気を劈きながら、エレキ・ギターを激しく掻きむしる。めちゃくちゃかっこいい。すごい。しかもマーガレットズロースの歌詞は、ロックン・ロール・バンドにありがちなかっこつけて、斜に構えたものではなく、正直で、日常的で、どこか微笑ましくてほっこりしたところもあって、ほんとうに面白い。
 ぼくは会場のいちばん後、カウンターの中のP.A.のミキサー卓の隣で、まずは天神蔵浜松酒造の地ビール、天神蔵ビールのピルスナーをいただき、それから地酒に移行して一部のみんなの演奏をじっくりと聞かせてもらう。とてもいい気分。みんながあまりにも素晴らしい演奏をするので、ぼくも気持ちがどんどん昂っていき、「よーし、頑張るぞ」と、思わず武者震いしてしまう。

10分ほどの休憩の後がぼくの出番で、休憩時間には今のぼくのいちばんのお気に入り、The Avett Brothersの最新アルバム『I and You and Love』をかけてもらう。素晴らしい音楽だ。気持ちがますます昂る。
 ぼくはまずひとりでギターを弾きながら「イマジン」と「ドリアン」を歌い、それからギター・バンジョーに持ち替えて「受験生ブルース」(高石ともやさんメロディ)、「だびよんの鳥」を歌う。それからマーガレットズロースの三人、ハーモニカのいとうたかおさん、ラッブ・スティール・ギターの長田タコヤキさんに加わってもらい、ぼくも含めて6人編成のバンドで、「へんな夢」、「お手並み拝見」、「For A Life」、「Big Sky」の4曲を演奏。
マーガレットズロースには、ぼくが自分の部屋で録音した演奏予定曲のMDをあらかじめ送っていて、みんなはそれを聞いて予習してくれている。ペケとタコヤキはぶっつけ本番のようなものだが、ぼくらは何十年来の友だちで、何度も一緒に歌ったり、演奏したりしているから、ぶっつけでもまったく大丈夫だ(ちょっと強引な論理だなあ)。
 それにしてもバンドでの演奏はめちゃくちゃ楽しくて、ぼくはどんどん盛り上がり、飛び跳ねたり、転んだり、バスドラの上に乗ったりして(後で平井さんから「あれはライブハウスでは絶対禁止ですよ」と、諭されてしまった)、さんざんはしゃぎ回った。聞いてくれているみんなの顔もとても楽しそうで、ほんとうに素敵な夜を過ごすことができた。一部のステージを見ながら飲んでいた、天神蔵のおいしい地酒も効いていたと思う。
 アンコールはいとうたかおさんの代表曲のひとつ「あしたはきっと」のロックン・ロール・バージョンと「ミー・アンド・ボビー・マギー」。もちろんどちらも六人全員での演奏で、ぼくはギター・バンジョーを弾きながら、楽しく、激しく歌いまくり、完全燃焼してしまった。

 明治蔵のレストランの隣、ショップの隅では、いとうたかおさんのこの天神蔵でのコンサートのボスターやちらしを毎回担当している、滋賀県甲賀郡信楽町の版画家、宮本一さんと流木で額縁や動物の置物、家具などを作っている木工作家の吉岡達雄さんの作品がずらっと並べられていて、ちょっとした二人展会場となっていた。
 今回のコンサートのための宮本一さんの版画は、「おいでよぼくのベッドに」というタイトルで、ベッドに寝ている若者がすぐそばにいるお嬢さんに「おいでよ」と呼びかけている、とても素敵な作品。ベッドの上には「Come To My Bedside」という本が置かれ、ベッドの近くにはギターも立てかけられている。ああ、こんなに素敵な版画を作ってくれたのだから、やっぱりこの夜は「カム・トゥ・マイ・ベッドサイド」を歌えばよかったなあ…。

 終演後、ばらし(片付け)が終ると、東区半田山にある、カフェでギャラリーでデッドヘッズのグッズや洋服、雑貨やアクセサリーなどを扱うショップでもある、sloWPorchにみんなで大移動して、大打ち上げ。
 sloWPorchのギャラリーでは、翌日の14日から来年1月11日まで、宮本一さんと吉岡達雄さんの個展『WOOD LIFE 9』wood craft+print exhibitionが開かれることになっていて、今夜天神蔵で展示されていた作品もこちらに運び込まれている。みんな素敵な作品ばかりなので、近くの方は、あるいは遠くの方も、ぜひとも足を運んでほしい。
 そういえばタッちゃんこと吉岡達雄さんとは、二年前の夏、山梨県原村のカナディアン・ファームで行われた「奏での森クラフト市」のフェスティバルでお会いしていて、その時に一緒に出演していたミュージシャンの友人は、吉岡さんが流木で作った蛸を購入したのだ。その時も素敵な作品がたくさん展示即売されていた。その時の蛸は今も友人の家の守り神として、玄関に大切に飾られているそうだ。

 全員が揃わなくて、なかなか乾杯が始まらないので、ぼくと風太さんは、風太さんがコンビニで買って来た缶ビールでこっそりと二人で乾杯(あれっ!?)。やがて全員が揃って、「おつかれさま」と乾杯が終ると、後はビールから赤ワインへとぼくは酩酊一直線。ライブで完全燃焼したこともあって、あっという間にいい酔い心地となる。夜中に車で東京に帰るマーガレットズロースのみんなやP.A.の加納ちゃんと、ちゃんと別れの挨拶をしたのかなあ?
 sloWPorchから今夜のコンサートの主催者の野田さんのお宅にみんなでタクシーで移動し、そこでまた飲み直したりしたことはかすかに覚えているのだが、いつ布団の中に潜り込んだのかはまったく記憶がない(毎晩そのパターンではないか)。翌朝目が覚めた時は、「ここはどこ? 今はいつ? 自分は何をしてるの?」と、まったくわけがわからない状態からしばらく復帰することができなかった。
 しかしほんとうに素敵な浜松の一夜だった。野田さん、ペケ、この夜のコンサートのためにいっぱい動き回ってくれたみなさん、ほんとうにほんとうにありがとう。 またぜひ浜松で歌いたい。

 この夜のことはマーガレットズロースが自分たちのブログで、そして音楽ライターの小川真一さんがやはり彼のmixiのブログで書いてくれている。そちらもぜひ読んでみてください。

http://blog.magazuro.com/

http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1363443546&owner_id=232328

ほかのリンク先
いとうたかおさん
http://itotakao.kustos.ac/

天神蔵
http://www.tenjingura.com/

sloWPorch
http://www.slowporch.com/

バンジョーリツゴロウ 2009年12月15日(火)

 12月11日と12日は、村上律さんと一緒に愛知県での2 Daysだった。もともとは13日にぼくが浜松に歌いに行くのに合わせて、犬山の珈琲ふうにライブをやらせてほしいとお願いし、ぼくの単独ライブが決まっていたのだが、同じ頃に同じ方面に行く予定の律ちゃんから、「ふう、一緒にやれへんかな?」と電話があり、ぼくは「喜んで」と答え、急遽律ちゃんとぼくとのジョイント・ライブに変更となったのだ。
 そして律ちゃんは犬山の前日の11日に、名古屋の古くからの知り合いのお店でのぼくとのジョイント・ライブを入れてくれ、二日連続で一緒にライブをやれることになった。律ちゃんと言えば、中川イサトさんとのデュオ、律とイサトでの活動が有名だが、今回は律とイサトならぬ律とゴロウというわけだ。

 11日の朝の10時頃に環八の近く、千歳船橋駅で律ちゃんはぼくをピックアップしてくれ、律ちゃんの愛車、ライト・グレーのスバル・フォレスター号は、東名に入って一路名古屋を目ざす。
 名古屋に着いて、律ちゃんはギター・アンプなどを借りるために、すぎの暢さんのスタジオに寄り、そこの二階の部屋でお茶をごちそうになり、しばらく寛いでしまう。改装したばかりだという広い部屋には、ワイゼンボーン・タイプのギターやラップ・スティール、馬頭琴などが10台以上ずらりと並べられ、ステージまであって、ここでなら素敵なライブもできそうだ。
 すぎのさんはお気に入りだという、Lazy Riverのワイゼンボーン・タイプのギターを次々と取り出し、律ちゃんにも一台どうですかと薦める。マホガニー、ウォールナット、コアウッドなど、材料の違うさまざまなLazy Riverを試し弾きして、その美しい音色に律ちゃんも大いに心を動かされている。「でも最近Baconのバンジョー買ったばっかりやからなあ…」
 ミュージシャンなら誰でもそうだが、楽器は見ると欲しくなってしまう。音が良かったり、材質や造りが素晴らしかったりするとなおさらだ。そして出会いのチャンスを逃すと、二度と手に入らなくなってしまうこともしばしばだ。ちなみにLazy Riverのワイゼンボーン・タイプのギターは、すぎのさんが注文を受けているので、興味のある方はぜひとも問い合わせてみてほしい。http://www.pancomusic.com/

 すぎの暢さんのスタジオを出て、フォレスター号は4時前に名古屋の新栄にある会場のお店に到着。車から降りて、お店の前に行くと、看板は「島風食堂」と出ている。しかしぼくは律ちゃんから、「名古屋は『潮風食堂』でやることになった」と連絡を受け、律ちゃんのブログのスケジュールを見ても「潮風食堂」となっていたので、自分のホームページのスケジュール欄にも「潮風食堂」と告知していた。
 念のためにとインターネットで名古屋の「潮風食堂」を検索してみたが、ひとつもひっかかってこない。おかしいなと思ってはいたのだが、実は「しおかぜ」ではなく「しまかぜ」だったのだ。律ちゃんも後で気づいて、ブログのスケジュールは潮風を島風に訂正したらしい。
 ぼくはお店の前に立つまでまったく知らなかった。大変失礼しました。しかし会場の名前が間違っているのに、誰からも指摘されなかったということは、ぼくのホームページを見てくれている人って、とりわけ名古屋ではほんとうに少ないんだろうな。寂しい。とにかく、お店の名前を間違って告知してしまって、ほんとうに申しわけありませんでした。

 島風食堂でサウンド・チェックを終え、おいしいいか焼きをつまみにビールをグビグビといただく。そして開演前には赤ワインへとなだらかに移行。
 今夜はぼくが最初に歌い、休憩後の後半は律ちゃんでいこうということになり、まずはぼくがソロで3曲歌い、それから律ちゃんにラップ・スティール・ギターを弾いてもらって6曲歌う。
 後半は律ちゃんが手に入れたばかりのBaconのバンジョーを弾いたり、ラップ・スティールを弾いたりしながら、悠々自適のマイ・ペースで自分の歌を歌っていき(いつ聞いても律ちゃんの歌はゆったりおっとりどっしりがっちりしていて最高だ)、最後の方の「南京豆の歌」や「コール・タトゥー」、「ミスター・ボージャングル」や「だんらん」などでは、ぼくもギターとコーラスで参加して、律とゴロウの世界ができあがっていく。
 ぼくの時も律ちゃんの時も、みんな食べたり飲んだりしながらゆっくりと聞いてくれていたみたいで、心地良い潮風ならぬ島風に吹かれているような素敵な夜になったと思う。ぼくはすごく歌いやすかった。
 島風食堂のマスターのあべしんじさんは、名古屋の人ではなく、宮城県の石巻出身で、そこには加川良さんが必ず歌いに行くビー・インというお店があって、そこであべさんは加川良さんや良さんと一緒にギターを弾いていた律ちゃんと親しくなった。古いつきあいなのだ。今回も律ちゃんの申し出を、あべさん夫妻は快く引き受けてくださった。
 ライブが終わってからもおいしいお酒やお料理をいっぱいいただき、お酒に目のない律ちゃんとぼくは大喜び。その夜は島風食堂の二階の部屋に泊めていただき、島風食堂を切り盛りしているあべさんと奥さんには、ほんとうにお世話になった。ありがとうございます。また歌いに行きたいです。今度はお店の名前、絶対に間違えません。

 12日の大安の土曜日は島風食堂でおいしい味噌汁と珈琲をごちそうになった後、11時頃に犬山に向けて出発。名古屋から犬山へと向かう国道41号線を走りながら、途中どこかで食事をしようということになる。ひつまぶし、味噌かつ、海老フライ、和食などなど、いろんな店の看板を見ながらも、決定打に欠け、気がつくとフォレスター号は珈琲ふうに到着していた。途中五郎丸で右折しそびれ、美濃太田方面に行ってしまうというアクシデントもあったが、お昼にはふうに着き、結局はふうで日替わりのおいしいお昼ご飯をいただく。途中でどこかに立ち寄らず、ふうで食べることになって大正解だった。

 食後は律ちゃんとふうから車で十分ほどのところにある犬山市民健康館の「さら・さくら」の温泉に入りに行く。ふうに歌いに来たのは、ぼくは四、五回目だが、来るといつもこの温泉に行く。
 2006年の春に高坂一潮さんのツアーにむりやり押しかけて、豊川からふうに泊めてもらいに来た時にも行ったし、2007年の夏に福岡風太さんとビッグ・スカイ・ツアーで来た時も行った。
 あの時、一潮さんはとても元気だったのにと、楽しかった旅のことをしみじみと思い出す。今、一潮さんは青森で闘病中だ。

 ゆっくりと温泉につかってふうに戻り、4時過ぎからサウンド・チェック。以前は生で歌ったこともあったが、今夜は立派なP.A.が用意されている。サウンド・チェックを無事終えて、ぼくは赤ワイン、律ちゃんは大阪は池田市の名酒、呉春をいただき、本番に向けてコンディションを整え、気力を充実させて行く(ほんまかいな)。
 今回の律ちゃんの名古屋、犬山、そして和歌山県新宮市熊野川へと続くツアーには、律ちゃんの大ファンの大阪の女性が名古屋で合流し(みんながママとか、おばちゃんと呼ぶのはどうしてか?)、呉春は彼女の差し入れだ。おいしいキムチもいつも山ほど持って来てくださる。

 ふうでのライブは、律ちゃんが先に歌い、後半がぼく。それぞれのコーナーでは、途中から一緒に演奏し、律とゴロウはますます結束を固めて行く。
 ふうには何と30人もの人たちが見に来てくれ、満員盛況でとても嬉しい。名古屋や美濃加茂からだけでなく、大阪や京都、それに東京からもいろんな人がやって来てくれ、ほんとうに嬉しかった。名古屋からは江口晶さんやさかうえけんいちさんなど、歌い手仲間も聞きに来てくれた。
 ふうは最高に素晴らしいお店で、とにかくライブがやりやすく、やればいつも熱く盛り上がる。それはひとえに歌をこよなく愛する店主の小川彰さんのあたたかい人柄ゆえだ。そしてそれよりもすごいのが、歌を求めて日本中をふらふらと旅する小川さんを好きなようにさせてあげ、その間しっかりとお店を支えている美しい奥さんだ。ふうは小川さんもすごいが、とにかく奥さんありきなのだ。

 今回ふうで律ちゃんとのライブをやるにあたって、そのチラシのためにぼくは次のような短い文章を書いた。
「一期一会で終るのではなく、それを十期十会にも百期百会にもしたいと願うのが歌い手の旅。どこででも素敵な出会いと喜びが待っている。また『ふう』に歌いに行けるのがとてもしあわせ。もちろん一期一会の思いで、心をこめて精一杯歌いたい。ぜひ聞きに来てください!!」
 この夜のふうも、素敵な出会いと喜びが待ち受けていた。ぼくは昨日の島風食堂とほとんど同じセット・リストで演奏したが、後半の律ちゃんのラップ・スティールと一緒の「For A Life」、「90センチ」、「30歳の子供」では、思いのかぎり、力のかぎり歌って、昇るところまで昇り詰めてしまった。

 そして楽しいライブの後は、楽しい打ち上げ。赤ワインとおいしい野菜のおつまみとおにぎり。あれっ、ぼくはいつ頃ふうの奥の部屋に敷いていただいた布団に潜り込んだんだっけ? 何とも記憶が曖昧だ。
 でもそれだけ楽しい夜を過ごせたということ。めちゃくちゃ楽しいうち、たった二日間だけの律とゴロウのツアーはあっという間に終ってしまったが、またすぐにぜひとも律ちゃんとのライブはやりたい。
 律ちゃんは本物のバンジョー、ぼくはインチキのギター・バンジョーと、二人とも一応バンジョーを弾いているので、デュオの名前は、律とゴロウではなくバンジョー律五郎に改名することにしよう。歌舞伎の坂東三津五郎みたいで、とてもいいんじゃないでしょうか。

悲しみの上のしあわせ〜映画『ねこのひげ』 2009年12月10日(木)

 宮原芽映さんが映画の中に登場するはがきやエンド・ロールのバック、それに宣伝チラシなど、いろんなところで使われる猫のイラストを描き、藤田恵美さんが歌うエンディング・テーマ曲「今がよければ」の作詞も担当している『ねこのひげ』という映画をようやく見ることができた。
 ぼくがこの映画のことを知ったのは、もう二年も前のことになる。毎年12月の終わりになると、芽映さんの親友のたきちゃんことタキモトさんの三軒茶屋のお家で餃子パーティが行われ、ぼくも自分のライブの予定などと運悪く重なっていない時は、いつも赤ワインを持って駆けつける。2007年の年末餃子パーティには、映画『ねこのひげ』の関係者も何人か参加していて、そこでぼくはその映画の話を初めて聞いて、上映されたら絶対に見に行こうと思ったのだ。

 その時に話を聞いた映画の内容がとても興味深いということもあったが、その映画『ねこのひげ』は、世田谷のぼくの地元の商店街とその周辺が舞台となっていて、話をしているうち、映画の企画・製作・脚本を担当し、主演も務めている大城英司さんが、何とぼくが住んでいるところの真向かいのマンションに住んでいることがわかったのだ。あまりにもの偶然に二人ともびっくり。パーティはいつものようにめちゃくちゃ盛り上がり、餃子でお腹いっぱい、ワインでヘロヘロになって帰る時には、確か芽映さんの車で、大城さんと一緒に家の前まで送ってもらったのではないだろうか。ぼくら二人はまったく同じ場所で降ろしてもらえればだいじょうぶだ。

 映画『ねこのひげ』は、2008年の春に劇場公開されたが、あいにくとぼくは劇場に見に行くタイミングを逃してしまい、それからもいつかどこかで見ることはできないものかと、この映画のことがずっと頭から離れなかった。商店街に行けば、いろんな店に『ねこのひげ』のポスターが貼ってあったり、チラシが置かれていたりして、それらを見るたびに、「ああ、早く見なければ」と、ひとりで焦ってしまっていた。

 そしてこの秋、『ねこのひげ』がめでたくDVD化され、劇場ではなかったが、DVDをレンタルして、ようやく見ることができた。すごいストーリー展開があるとか、はらはらどきどきするシーンがあるとか、決してそんな派手な作品ではなく、どちらというか静かで穏やかな作品で、飲んだり食べたりするシーンばかりがやたらと出てくる。しかしぼくは物語の中にすっと入って行くことができ、主人公たちや、彼らを取り巻く人たちの気持ちが痛いようによくわかり、とても心を動かされ、涙も流してしまった。
 何しろ物語は、結婚していて二人の幼い子供もいる脚本家の男が、離婚歴のある女性雑誌編集者と知り合い、男は家を飛び出して彼女と一緒に暮らし始めるというもので、その中で揺れ動く二人のさまざまな思いが、とてもリアルに、とても切なく、そしてとても丁寧に描かれている。主人公の二人は共に30代後半だ。見ていて、すごく身に沁みる。

 一言で言うなら、『ねこのひげ』は「不倫」や「離婚」がテーマの作品だが、「不倫」や「離婚」となると、たいていすぐに持ち出されるのは、正しいか間違っているかの「正邪」、あるいはいいか悪いかの「善悪」の観点だ。当事者もまわりの人間も、そこに雁字搦めになってしまう。この映画の中でもいろんな人たちの口から、「間違っているかな」、「よくないことだ」といったような言葉が飛び出している。
 そりゃあ「不倫」や「離婚」は、よくないことだし、間違ったことだろう。しかしそれはあくまでも制度や道徳とか、そういったことに照らし合わせてのことで、それとは別に、もっと人間的なところというか、心や感情に押し動かされ、どうしてもほかの人を好きになってしまうことや、一緒になった人とうまくいかなくなってしまうことがある。それを抑え込むというのが、制度や道徳にとっては正しいことで、よいことなのだろうが、でもその人の心にとっては、それは間違っているし、よくないことになってしまうのではないだろうか。
 映画『ねこのひげ』は、制度や道徳や世間にとらわれながらも、自分の心を大切にしたいと悩み、苦しみ、揺れ動く男と女の喜びや悲しみ、切なさや優しさ、後ろめたさや安らぎが、さりげない場面の連続の中にも、とてもこまやかに丁寧に描き込まれている。ドナルド・リチー氏は、この映画を「現代の小津作品のように思う」と評している。

 ぼくは人が人を好きになったり、うまくいかなくなって離れていったりすることに、いいも悪いも、正しいも間違っているもないように思う。何か間違っていることがあるとすれば、それは自分の心に背くこと、自分の心に正直でないことだと思う。こんなことを言うと、恋愛と結婚は別なんだよと言う人が必ず出てくるのだが、その捉え方もまた、どこから見るかによって、正しくもあるし、間違ってもいるのだろう。
 映画『ねこのひげ』の中で、主人公の男性は母親から手紙をもらう。そこには、今のあなたたちがあるのは、たくさんの人たちの悲しみがあるからこそ、といったようなことが書かれている。だからこそしあわせになってほしいと母親は願っているし、主人公の二人もそのことがよくわかっていて、「自分たちはしあわせになろう」と、心から思うのだ。
「不倫」や「離婚」では、悲しみと共に怒りや恨みといった感情も渦巻くが、怒りや恨みはどうしても人のしあわせを願う気持ちへとは繋がっていかない。しかし悲しみは、やがてそこから人を赦し、人のしあわせを願う気持ちへと繋がっていくようにぼくには思える。もっともぼくがそんなこと偉そうに言える話ではないのだが…。

 映画『ねこのひげ』は、出演者がみんなすごく自然で、役よりも役者自身が前に出てしまうことはほとんどなく(何を演じても本人が前に出てしまう役者がいる。例えば…)、実にいい感じだった。お酒を飲んだり、食事をしたりするシーンもほんとうにおいしそうで、見ているだけでぼくも何か飲みたくなってしまった。
 出演者の中では主演の渡辺真起子さんが特に素敵で、『殯の森』を見た時も、『棚の隅』を見た時も、すごくいい役者さんだなと思ったが、今回もほんとうにいい。その自然な演技(これって矛盾する言い方?)が大きな魅力で、今回の映画でも、まさに女性編集者という話し方やふるまい方を身につけていて、この人すごいなと感嘆させられた。

 そして吉川清之さんの音楽がまた素晴らしい。同じ単純なメロディが、アレンジやテンポ、楽器を変えて、映画の中で何度も登場するのだが、この音楽が『ねこのひげ』の世界を作り上げていくのに、とても大きな役割を果たしている。映画を見ながら、次はどんな感じでこのメロディが登場してくるのかと、ぼくは待ち遠しくてたまらなくなってしまっていた。
 そしてラストに流れる宮原芽映さんが作詞した「今がよければ」も、よくよく歌詞を聞くととても深くて重く、怖くもあり、まさにリアルで経験主義の芽映ワールドが展開されている。
 今ならDVDレンタルもできるし、DVDも買える矢城潤一監督・編集、大城英司企画・製作・脚本、渡辺真起子、大城英司主演の『ねこのひげ』、ぜひ見てください。

風の音楽隊 2009年12月08日(火)

 12月6日の日曜日は、府中市の分倍河原にある居酒屋風で、宮原芽映さんたちと「風の音楽隊」コンサート。芽映さんに誘われて、初めて風に行ったのは、もう10年以上も前のことで、それから毎年12月になると、風で風の音楽隊コンサートをするのが年末の恒例となってしまった。そもそもは芽映さんが風のさとうはなよさんと知り合いだった。
 というわけで、風の音楽隊コンサートは、今年でもう10回以上になるが、宮原芽映さんとぼくとが中心になって、それぞれの音楽仲間がいつも駆けつけてくれる。夕方からコンサートが始まり、その後はみんなでの打ち上げというか、おいしい食事もいっぱい出て、とても楽しく賑やかな忘年会となる。
 これまでに駆けつけてくれたミュージシャンは、芽映さんの仲間もぼくの仲間もとてもたくさんいて、振り返って数えてみると、それこそ20人近くになるのではないだろうか。まだ元気だったHONZIもやって来てくれたことがある。

 10年以上続いて来た年末恒例の風の音楽隊コンサートだが、今年はとりわけいつもと違って感慨深いものがある。というのも今年の夏前に、とんでもない不況の影響を受け、風のはなよさんとマスターとが、もうお店を閉めることにすると言い出したのだ。お店がなくなってしまえば、当然風の音楽隊コンサートも続けられなくなり、中止となってしまう。
 芽映さんとぼくは、コンサートを続けたいということよりも、二人とも風というお店をとても気に入っていて、そのお店がなくなってしまうのはあまりにも悲しいことで、地域にとっても多大なる損失になると思い、とにかく頑張ってお店を続けてほしい、ぼくらにできることは何でもするからと、励ましのエールを送った。
 もちろんそれが直接の理由ではなかっただろうが、はなよさんとマスターは今一度考え、風を続けようと決意を新たにしたのだ。かくして今年も12月になって、風の音楽隊コンサートを開くことができるようになった。もしかすると幻に終ってしまっていたかもしれないだけに、これはほんとうに嬉しいことだ。

 今年の風の音楽隊のコンサートでは、来てくれたお客さんみんなに、さとうはなよさんはB4サイズの紙一枚に書かれた長文の手書きのメッセージのコピーを手渡していた。その中にはこんなことが書かれていた。
「100年に一度の不況と騒がれたこの一年、居酒屋風も店をやめようかと真剣に検討した時もありました。続けなさいと言わんばかりの出来事が続く中、風の音楽隊を続けていける! ということがとても大きな喜びでした。私の生き甲斐になっている、その根底には、私が長年望んできた生き方が凝縮しているんだ! とつくづく思っております」
「先日、以前東京新聞に掲載されていた、伊藤美好さんのエッセイ『パンケーキの国で』の単行本を図書館から借りてきました。デンマーク人の一番大切にしている言葉『ヒュッゲ』と『オップリュスニング』に、風の音楽隊、キャンドルナイトだけは続けていこうという私の思いが表われています」
「店をやめる! →維持していく! → という騒ぎの中で、色々な人からあたたかい言葉をかけていただきましたが、とりわけ芽映チャンと五郎さんからのメールは強く心に刻まれました。風の音楽隊だけでなく、日々の生活の中でも、風の音楽隊に凝縮された人とのつながりが、ゆったりと広がっていくことを心より望んでおります」
  はなよさんの手書きのメッセージには、伊藤美好さんの本『パンケーキの国で』の第67話の「ヒュゲ」のページをコピーしたB5サイズの紙も付けられていて、そこにはこう書かれている。
「デンマーク人に『デンマーク人にとって、いちばん大切なことは?』と聞くと、たいてい『ヒュゲ(hygge)』という答えが返ってくる」
「どんな時のことをいうのか。たとえば、だれか親しい人の家によばれて、食事をしたり、コーヒーと手作りのケーキをいただいたりして、ゆっくり時間を気にせずに、心ゆくまでおしゃべりし、軽い冗談を言っては笑ったり、心がくつろいで、なんだかぽっとあたたかい気持ちをその場にいるみんなが共有しているなあ、という感じ」
「後から思い出しても、心がふわっとあたたかくなって、ついほほえんでしまう。そんなゆったりとした時。特別に何、というわけではないけれど、生きていてよかったなあ、という気持ちになってくる」
「もう一つ、とても大切な言葉。オプリュスニング(oplysning=英語のenlightenmentにあたる)。啓蒙、啓発、情報などという意味なのだけれど、文字どおり訳すと、『あかりをつけること』。従来の教育という言葉を嫌ったグルントヴィが、相互作用(vekselvirkning=英語のinteractionにあたる)という言葉とともに、好んで使った言葉だという」
「『それぞれの人が、自分の内にあかりを灯すこと。そして、そのあかりでたがいに照らしあい、影響を受け止めあって、ともに成長して行くこと。グルントヴィは、それが教育の意味だって言ったんですって』と、フォルケホイスコーレで出会ったローネが教えてくれた」
「一人ひとりが持っているそれぞれ違うあかりで照らしあい、受け止めあうためには、どの人もありのままの姿で受け止められるような信頼関係が、人々の間になりたっていなくてはならないだろう。それを支えるもとがヒュゲではないか、という気がする」

 今年の居酒屋風での風の音楽隊コンサートも、お店がいっぱいになり、前半は5時半頃から、宮原芽映さんがギターを弾きながら、ギターの丹波博幸さん、ギターの原田康平さんと、三人ギターで一時間近く演奏。
 ぼくは昔から芽映さんの歌が大好きだが(ほわっとしていても、とてもリアル)、入院したお父さんの看護をしていてカテーテルが登場する歌とか、久しぶりに会った昔の恋人が自分のことを別の女性と勘違いしている歌とか、「またね」といつも言うくせに決して連絡してきてくれないノーマメ男(マメでない)の歌とか、最近の歌もとてもいい歌ばかり。
 芽映さんには、もっともっといろんな場所で歌ってほしいし、そろそろ新しいアルバムも、もっとたくさんの人たちにその素晴らしい歌を届けるために、久しぶりに(彼女が最後にアルバムを出したのは、もう17年も前のことだ)作ってほしいと強く願わずにはいられない。

 休憩の後はぼくの出番。今年も伊東正美さんが、アコースティック・ギターとマンドリンを抱えて、駆けつけてくれた(風の音楽隊コンサートには何度もやってきてくれている)。二人とも芽映さんの歌を聞きながら、南アフリカの赤ワインをぐびぐびと飲んで、ウォーミング・アップは完璧。
 ぼくはもしかするともうできないかも知れないと思っていた風の音楽隊コンサートを今年もやれたことがめちゃくちゃ嬉しくて、一曲目の「お手並み拝見」からパワー全開でぶっ飛ばし、ラストの「90センチ」や「ビッグ・スカイ」では、はしゃぎすぎて、叫びすぎて、動きすぎて、今にも頭の血管が切れそうになってしまった(毎度のことか)。歌い終えた時には、汗まみれでシャツはびしょびしょ、頭はくらくら、からだはふらふらになってしまっていた。

 そして8時過ぎからは、お酒はもちろんのこと、風のおいしいお料理もいっぱい出て、出演者も見に来てくれたお客さんも、そして後半になるとどんどん酔ってくるマスターも、みんなが入り乱れての楽しい楽しい打ち上げに突入。
 いつも12月だから、打ち上げは忘年会でもあるのだが、今年ぼくは新しい言葉を覚えた。居酒屋風での風の音楽隊コンサート、そして終ってからのみんなでの打ち上げ。これぞみんなが自分の内にあかりを灯し、そのあかりでお互いを照らしあう、オプリュスニングの集い、ヒュゲそのものなのだ。

もっとヘミングウェイとか読めよ 2009年12月04日(金)

 12月3日は渋谷の屋根裏に歌いに行った(また雨だった)。ベンジャミン & きなこむち & Shibuyane presentsの「ねえ、おまんみん、もっとヘミングウェイとか読めよ」というイベントに誘われたのだ。
 夜の18時30分から始まったこのイベントは、出演者が(出演順に)オノツバサさん、えれきほたる、electric boogie land、ぼく、ベンジャミン、きなこむち、と全部で6組。嬉しいことに、60歳のぼく以外は、現役の大学生のバンドだったり、シンガー・ソングライターだったり、あるいはもう少し年長でもまだ20代の人たちのバンドだったりと、圧倒的に若い世代の人たちばかりで、自分の子供より下の世代のミュージシャンと共演できる機会はあまりないので、すごく嬉しかったし、すごく楽しく、面白かった。

 そもそもぼくがどうしてそんな自分よりも40歳近くも若い人たちが中心のイベントに呼ばれたのかと言えば、今年の10月10日、初台のドアーズで開かれた「Bob Dylan Respect Night」の第三夜にぼくが出演した時、きなこむちの花井優太さんとベンジャミンの岡村さんが見に来てくれたことがきっかけだ。
 その夜はぼくの大好きな作家の盛田隆二さんも光文社文庫の編集者の鈴木広和さんと一緒に見に来てくださり、「飲み放題ドンチャン騒ぎチケット」というシステムだったこともあって、お二人はかなりいい出来上がりになっていた。終ってから会場で、ぼくが盛田さんたちと一緒に話をしているうち、きなこむちとベンジャミンの二人もいつしか加わり、本屋でアルバイトをしている花井さんがいろいろと文学の話などをすると、場はますます盛り上がり、その後近所の居酒屋に河岸を変えて、みんなでしっかり飲みまくったのだ。
 その時に花井さんから「自分たちはそれぞれバンドをやっていて、自分たちが企画するイベントに歌いに来てもらえませんか」と尋ねられ、ぼくは「もちろん、喜んで」と答え、この出会いから2か月も経たないうちに、一緒にライブをやることが実現してしまったのだ。

 後日、花井さんからイベントの詳細を教えてもらうと、会場は渋谷の屋根裏。懐かしい。場所は十数年前に、パルコ・パート3の向かい、シネマ・ライズの並びの、今のところに移ってしまっているが(屋根裏なのにビルの地下だ)、70年代、まだもっと渋谷駅の近く、西武のA館のそばの確かパチンコ屋さんの確か二階か三階にあった時は、何度も歌いに行ったりしていた。
 もちろん場所が移った新しい渋谷屋根裏でぼくが歌うのは、今回が初めてのことだ。スケジュールを見てみると、今の屋根裏に出ているのは、ほとんどが若い人たち、しかもロック・バンドが多いようだ。

 この夜も、すでに書いたように、出演者や出演バンドは現役の大学生が中心で、ちょっと年上の人たちのようにぼくには思えたelectric boogie landは、何と大阪のバンドで、大阪から演奏しに来ていて、まんが喫茶やサウナに泊って、東京で二回だけライブをやって、また大阪に帰るという。彼らの「一万回目の朝」という曲は、とても気に入った。さしずめぼくの場合は、二万二千回以上の朝を迎えてしまっているけど…。

 花井さんは大学で作詞作曲研究会に入っていて、そのメンバーみんなに「ぜひとも来るように」と、強力に言ったことも効果があったのか、大学生らしき若者たちが次々と屋根裏にやって来て、ライブが始まってしばらくした頃には、ステージ前のベンチ席も、後方のスタンディングのスペースも、客席はほぼ満員の状態。これはすごい。
 花井さんの話によると、彼らがライブをやる時は、100人近くが来てくれるという。うらやましい。すごいことだ。(花井さんから後で連絡があって、これはぼくの聞き間違えだった。いつもは10人いればいいかなといった感じらしい。すみません)

 ぼくはだいたい客席にいて、共演者みんなの演奏をじっくりと聞かせてもらったが、それぞれ個性的で、自分たちの世界を作り上げていて、とても興味深かった。最初に歌ったオノツバサさんが、「今日出る人はみんなどこかアタマがおかしいです。それを見に来た人たちもアタマがおかしいです」といみじくも言っていたが、「アタマがおかしい」、それはすなわち独自のアンテナを持っていて、独自のやり方があって、自分のアタマで考え、安易に群れず、自分の道を貫くということなのだと、ぼくは解釈した。

 ほとんどが二十代前半の満員の聴衆を前にして、ぼくはギター・バンジョーとギターとを持ち替え、「お手並み拝見」、「受験生ブルース」(高石ともやさんメロディ)、「25年目のおっぱい」、「For A Life」、「30歳の子供」、「ビッグ・スカイ」の6曲を歌った。終ってから出演者も聴衆も含めて、たくさんの人たちから、「よかったです」、「感激しました」「言葉が入って来ました」などと嬉しい言葉をいっぱいもらうことができた。自分の子供よりもっと下の世代の人たちに、自分の歌が受け入れられたのだとすれば、こんなに嬉しいことはない。もっともっと若い人たちの前に出て行って歌うことができたらいいなと強く思った。
 ライブ会場に持って行っても、ふだんはほとんど売れることのないぼくのCDも(出してからもう随分と年月が経っているからね。早く新しいCDを作ろう!!)、この夜は何と二枚も売れた。
「あっ、飲み代ができた」と小躍りしてしまったが、子供じゃないんだから、そこで心しなければならない。CD代金をちゃんと管理せず、すぐにその場で使ってしまうから、後で精算の時に苦しむことになってしまうのだ。

 ライブが終わったのは23時前で、会費1000円の打ち上げが始まったのは23時20分頃から。若い人たちといっぱい話をしたかったが、ぼくらの世代と違って、みんなとてもあっさりしたもので、終電の時間が近いからと、すぐに解散になってしまう。いつまでも延々と、朝まで飲み続け、話し続け、やがて喧嘩が始まったりする、ぼくらの世代の打ち上げに比べると、随分と爽やかでさっぱりしている。
 とはいえ、ぼくも終電で帰らなければならない身だ。飲みたりないな、もっと話をしたいなと思いつつ、ギターとギター・バンジョーとデイパックとを抱え、屋根裏から地上へと駆け上がると、すでに雨は上がっていた。

↑前のページ / ↓次のページ

ページ移動 / [1] [2] [3] [4] [5] [6] [7] [8] [9] [10] [ShowNext]


Web Diary UpVersion ver 1.28