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       The World According to Goronyan


ナカガワゴロウの世界


リメンバー「無力無善寺」!! 2008年07月17日(木)

 7月3日の高円寺「無力無善寺」の「日本ロックフェスティバル」での大失敗以来、今日までに東京で三度ライブをやったが、さすがにこのぼくも懲りに懲りて、反省もすれば、教訓も学び、三度のライブは、すべて本番前はあまりお酒を飲むことなく(というか、飲みすぎることなく)ステージに立った。

 7月8日は渋谷の「7th Floor」で、HIGH BRIDGEの高橋尚人さん企画のイベント『シブヤコネクション〜男たちの挽歌 Vol.8』に出演。ラインナップは、鈴木羊さん、FRIDAY、スロラナとぼくの四組で、この夜のぼくはサックスやクラリネットの多田葉子さんとのデュオで出番は最後。
 スロラナは漫画家の山本直樹さんを中心とするバンドで、ギタリストの白石亜紀彦さんは、五、六年ほど前にぼくと一緒にライブでよく演奏してくれていた人で、終ってから一緒に飲んだりしていたし、ドラマーの浜本茂さんは某雑誌社勤務で、以前にその人がやっているイベントに出て、終ってから一緒に飲んだことがある。ベーシストの鎌田孝志さんとも、ラ・カーニャかどこかで一緒に飲んでいるし、山本さんともやはり下北沢の別のお店で長時間にわたって一緒に飲んだ記憶がある。
 というわけで、開演前や開演後の時間を持て余して、かつての飲み仲間と度を超してついつい飲んでしまう危険性が大だったのだが、凝りに懲りているぼくはひたすら我慢で、出番まで赤ワイン一杯にとどめる(奇跡‼)。
 10時近くに始まったぼくのステージは、多田さんと一緒に7曲演奏し、一杯だけの赤ワインが功を奏し、とてもいい気分で、集中し、緊張して歌うことができた。

 そして歌い終えて、「7th Floor」で、ビール、ギネス、ビール、赤ワインをぐびぐび。歌い終わった後のこのお酒のおいしさは、歌う前や歌っている途中に飲みすぎていないからこそだ。その快楽を久々に味わう。
 というわけで、ハイになったぼくは、スロラナの有志とその身内や仲間とで下北沢に流れ、スロラナ行きつけの居酒屋で、何と朝の5時まで飲むことに。いろんな話に(おもに男女問題など)花が咲く。摂取量ということでは、結果的には、「無力無善寺」の日とほとんど変わらないことになってしまったが、歌う前や歌っている時から飲むのと、歌った後から飲み始めるのとでは、お酒のおいしさがまた違っていることを今さらながらに発見。もちろんこの夜のぼくは、いくら飲んでも、懲りることはなかった。

  7月12日は代官山の「晴れたら空に豆まいて」。「武器ではなく、花を!」と、ライブの時にフライヤーと一緒に花の種も配るというインディーズのアーティストたちの活動から始まった「BLOOM GLOOM」のイベント「BLOOM GLOOM 満開の惑星 21世紀のフラワー・チルドレン Vol.4」に出演。この夜のラインナップは、うつぼ、KING、それに中川五郎 with 真黒毛ぼっくすの三組で、ぼくらの出番は最後だ。
 真黒毛ぼっくすとのリハーサルも兼ねたサウンド・チェックが2時からあり、それが3時半頃に終って、ぼくらの出番は9時10分頃の予定。ということは、出番まで六時間近くある。しかも真黒毛ぼっくすには、お酒を主食としている大槻ヒロノリさんがいる。
 リハーサルとサウンド・チェックが終って、客席でぼーっとしていると、大槻さんがのっそり近づいて来て、「あのぉー」と、いつものあの気味悪い雰囲気で声をかけてくる。「打ち合わせも兼ねてちょっと飲みに行きませんか」と、近所の代官山には大槻さん向きのお店がないので、ほかのメンバーも一緒に(もちろん大槻さんの奥さんの智美さんや、8歳の娘の香苗ちゃんも含まれている)、てくてく歩いて中目黒の駅の近くの安い居酒屋へ。
 タイム・サービスで、生ビールの小ジョッキが200円‼(ただし最初の一杯だけ)。それだけでなく、どのお酒もとても安いのだが、ぼくは「無力無善寺」の教訓を思いだして、ひたすらセーブ。そして最初のうつぼのステージを見られるようにと、一足先に「晴れたら空に豆まいて」に帰った。

「晴れたら空に豆まいて」でも、お酒を頼むことなく、うつぼとKINGのステージをじっくり見て、いよいよぼくらの出番の時間に。時間はライブの常で押していて、もう9時半近くになっている。あれっ、大槻ヒロノリさんの姿が見当たらないぞ。
 ステージの準備をし、いよいよ一曲目の「はなれていれば思いはつのる」が始まるかという時に、大槻さんが現われる。どうやら直前まで飲んでいたらしく、何だかヘロヘロだ。
 演奏が始まって、間奏の時に後ろを振り向くと、大槻さんはぼくが持って来たバンジョーを抱えてバスドラの上に跳び乗って雄叫びをあげている。その後でバンジョーをギター・スタンドにちゃんとたてられず、思いきり倒したりしているではないか。
 二曲目は「トカゲ」で、それから真黒毛ぼっくすの曲の「レフトフライ」になり、ぼくはこの曲では後ろに下がってバンジョーとコーラスを担当。歌が始まると、大槻さんはステージから転げ落ち、客席に倒れ込んだりして、すごいことに。しかも自分たちの十八番と言える「レフトフライ」の歌詞を忘れて、歌えなくなっている。「無力無善寺」でのぼくもああだったのか。ああ、恐ろしい。
 メンバーに歌詞カードを渡してもらい、大槻さんは何とか歌えるようになり、ぼくはバンジョーを弾き始めたところ、さっき倒されたので、チュニングが完全に狂ってしまっている。必死になって合わせたものの、ようやく合ったところでほとんど曲が終ってしまった。

 それから「90センチ」、「腰まで泥まみれ」と演奏し(大槻さんは相変わらずすごい状態のまま)、6曲目は、この日大槻さんに突然やろうと言われ、一回軽く合わせただけで、ぶっつけでやることになってしまった「雪よ降れ ヒンズークシュの山の上に」。
 最初はマンドリンだけの伴奏で、真黒毛ぼっくすの女性たちとぼくとのかけあいで歌っていくのだが、あまりにも実験的すぎて、この曲ばかりは集中できず、三番の歌詞で「地雷をひとつ取り除く費用は/ひとつ作る値段の三百倍」と歌うところ、「地雷をひとつ作る値段は」と先に歌ってしまい、大慌てで、「ひとつ取り除く費用の三百分の一」とインプロバイズしてしまった。一緒に歌っていた女性たちは、さぞかし仰天してしまったことだろう。

 その後は、真黒毛ぼっくすの曲「岬で待つ女」(この曲での大槻さんもすごくて、完全にぶっ壊れていた。ぼくのバンジョーに向けられていたマイク・スタンドを前に持って行き、「ここでしか聞けない、中川五郎のバンジョー」みたいなことも言われたが、ぼくはこの楽器をほとんどまともに演奏することができず、恥ずかしさに襲われながら、ジャカジャカと必死でコードをフラット・ピックで弾き続けるしかなかった)と「ビッグ・スカイ」。
 これで終わりなのだが(ぼくらの持ち時間は40分なのに、めちゃくちゃオーバーしている)、大槻さんは自主的にというか、強引にアンコールに持ち込み、うつぼやKINGの人たちもステージに呼び込んで、「ミー・アンド・ボビー・マギー」が始まってしまう。そしてだめ押しで、「イマジン」までやってしまった。
 しかし自分がそれほど酔っていないと、酔っている人、というか酔っ払いすぎている人のステージがどんなだかよくわかる。お酒でエネルギーを高めるのはいいのだが、一線を超えてしまってはだめなのだ。大槻さん、お互いに気をつけましょう(翌日にもらったメールでは、彼も相当懲りていたようだ)。

 翌7月13日は、代々木の「My Back Pages」で、「なにわのてつ」こと藤縄てつやさんとのジョイント・ライブ。ここのマスターもすごいお酒が好きな人なので、演奏前に飲み過ぎないよう心する。
 今回のジョイント・ライブは、惜しくも閉店してしまった高田馬場のお店「Jerry Jeff」のママが、「My Back Pages」のお手伝いをするようになっていて、彼女のブッキングで実現したものだ。何度も出演させてもらった「Jerry Jeff」でのライブの時と同じように、ママはぼくのためにおいしい赤ワインを用意してくれていて、演奏前に出してくれたのだが、「リメンバー『無力無善寺』」、「リメンバー、昨日の大槻ヒロノリさん」ということで、心していただくことに。
 ライブはまずはてっちゃんからで、大ヒット曲「環状線ブルース」の時は、いやな上司役で飛び入り参加。心して赤ワインを飲んでいたので、乱れることなく粛々と上司役を演じることができた。
 休憩の後はぼくで、ほどほどの赤ワインが効いて、とてもいい調子で歌える(しかしステージは暑い。滝のように流れる汗)。全部で10曲歌い、後半の5曲では、てっちゃんに素晴らしいリード・ギターを弾いてもらった。P.A.のハウリングが気になったが(歌っているぼくよりも、聞いてくれているみんながきつかったと思う。すみませんでした)、とても楽しくやれたライブで、もちろんこの夜も終ってからグビグビ飲んだ赤ワインや生ビールがすごくおいしかった。
 今や「My Back Pages」の主役の座をボブ・ディランから奪ってしまったかのように思える、大阪名物、ウスターソース二度漬け禁止の串カツもごちそうになり、これまたとてもおいしい。この串カツやキャベツで味わうビールは格別なのだ。
 歌い終えた後のひとくちのこのおいしさのためなら、ぼくはいくらでも飲まずに歌うことができるぞ!!

ネブリナに溺れて。 2008年07月09日(水)

 高円寺のライブハウス「無力無善寺」名物の「日本ロックフェスティバル」にまた出演できることになった。今年で4回目となるこの「フェスティバル」にぼくが出るのは二度目で、今回も前回と同じく、イベントの企画者の一人、「我々」というバンドの小松さんに誘われての出演だ。このフェスティバルにまた出て歌えるとは、とても嬉しい。
「日本ロックフェスティバル」は、「無力無善寺」で一週間にわたって行なわれるもので、今年の「日本ロックフェスティバル〜高円寺古着屋殺人事件」に、ぼくが出るのは三日目の7月3日。毎日6時から11時まで五時間にわたって8組ほどが出演し(土曜日だけは午後の2時から11時までの九時間で13組が出演)、そのほとんどが高円寺などで活動している、ぼくからするとうんと若い世代のアーティストたちが中心なので(唯一の例外が、ぼくの翌日の4日に出演する三上寛さんか)、そういう場で歌う機会を与えてもらえるというのは、ほんとうに嬉しい。

 夕方の6時から始まるイベントで、ぼくの出番は六番目、早くても9時半頃なので、サウンド・チェックもしないし、ゆっくり「無力無善寺」に向かえばよかったのだが、ほかの出演者が見たいということもあり、ちょっと早めに行こうと思っていたら、6時前に福岡風太さんから「もう、高円寺に着いた」と電話が入った。この8月後半に、風太さんのプロデュースのもと、九州、中国をツアーすることになっていて、ぼくの出番の前に高円寺でその打ち合わせをしようということになっていたのだが、彼は居場所がないのか、早々と高円寺に到着だ。
 そこでぼくも高円寺に向かい、まずは風太さんと打ち合わせをしようと、すでに「日本ロックフェスティバル」が開演していた「無力無善寺」に入ることなく、同じガード下、「無力無善寺」の一階にある「晴れる屋」という飲み屋に入る。
 これが失敗だった。大失敗だった。そこにはぼくの好きなチリのカベルネ・ソーヴィニヨンの赤ワイン、ネブリナ(Neblina)のボトルが2000円以下であり(酒屋で買うと700円以下だが)、「おっ、嬉しい」と早速注文。酒を一滴も飲まない風太さんを相手にネブリナのボトルをぐびぐびと飲み進めるうち、ライブを見に来てくれたぼくの友だち、今夜のライブに飛び入りして一緒に演奏してくれる「真黒毛ぼっくす」の女子部の三名も、ぼくが「一階の『晴れる屋』という店にいます。そちらに来てください」と連絡したものだから、当然そこに合流した。そして飲める人は飲み、飲まない人は飲まずに時間を過ごすうち、ネブリナのボトルは三本も空いてしまい、ぼくはすっかり酔っぱらってしまった。

 ということで、その夜の「無力無善寺」の「日本ロックフェスティバル」でのぼくの演奏はとんでもないものに。確か「ビッグ・スカイ」、「For A Life」、「イマジン」、「90センチ」、「ミスター・ボージャングル」の5曲を、真黒毛ぼっくす女子部のサックス、ベース、ドラムスと一緒にやったのだが、あまりにも酔っていて、まともに歌い、演奏することができなかった。
 ほんとうに申しわけない。猛省。「無力無善寺」で聞いてくれていた人たち、ぼくを「日本ロックフェスティバル」に呼んでくれた「我々」の小松さん。「無力無善寺」の無善法師さん、飛び入りで一緒に演奏してくれた真黒毛ぼっくす女子部の三人。ほんとうに申しわけない思いでいっぱいだ。
 歌う時に少し飲んだりすると、とてもいい調子になるものだが、それも程度の問題で、飲み過ぎて酒にのまれてしまうと、もう絶対にだめだ。人前で歌う時には、気持ちを研ぎ澄ませ、覚醒していないと、集中することもできなければ、緊張することすらできない。しかもぼくは自分の歌が決して酔いにまかせて歌うようなものではないこともよくわかっているはずだったのに…。
「飲んでやるのはよくない」、「五郎さんの歌は飲んで歌うようなものじゃない」という、大阪方面でぼくのライブをよくやってくれる友だちがいつも口を酸っぱくして言っていた言葉の意味を、とんでもない大失敗をして改めて噛みしめたぼくであった。
「我々」の小松さん、ぼくを見捨てないで、ぜひまた「日本ロックフェスティバル」に誘ってください。今度は絶対に雪辱を果たします。若い世代にも通じる熱い歌を作り、飲まずに(そんなに飲まずに)歌いますから…。

何度も名前が変わった煉瓦造りの倉庫で何度も歌う。 2008年07月07日(月)

 6月29日、日曜日。上富良野町の旅の宿「ステラ」(http://www.stella-kamifurano.com)で、ボリュームたっぷり、おいしいおいしい朝食をいただき、旭川に行く前に十勝岳温泉に立ち寄ることにする。
 お嬢さんが東京でOrange Flavorというユニットで音楽活動をしているというペンションのオーナー、愛称シロクマくんこと朝倉修さんと長話をしているうち、気がつくと「ステラ」の近くのバス停からの十勝岳温泉行きの町営バスの出発時間がぎりぎりに迫っている。何しろ午前中は二便しかないのだ。あわててシロクマさんに車でバス停まで送ってもらう。発車時間ぴったりに到着し、もうすぐ来るでしょうということで、そこでしばし待つことに。シロクマさんは「ステラ」に戻っていった。
 ところがいくら待ってもバスは来ない。そういえば、バス停に着いた時、道の先の方にマイクロバスの後ろ姿がかすかに見えていたような気がする。しばらくすると、「バスはもう行ってしまったのではないか」と心配したシロクマさんが戻って来てくれ、そのまま「ステラ」の車で十勝岳温泉のカミホロ荘まで送っていただく。案の定、山道の途中で十勝岳温泉行きの町営バスに追いついた。追い越しざま、中を覗き込むと、乗客はひとりしかいなかった。

 カミホロ荘の温泉、室内風呂と露天風呂にゆっくりと浸かり、一日三回も歌った昨日の疲れを癒し、お昼になると山の上まで迎えに来てくださった「ステラ」のシロクマさん夫妻に、そのまま今度は旭川まで送っていただく。「買い出しもあるから」と言ってくださったが、わざわざ遠くまで送っていただいて、ほんとうにありがたい。
 シロクマさん夫妻には、旭川へ行く途中、美瑛の「山頭火」で塩ラーメンまでごちそうになってしまった。そういえばラーメンの有名全国チェーン「山頭火」の畑中社長は、実は1976年夏に高田渡さんと佐久間順平さんとぼくの三人で北海道をひと月ツアーした時、それを中心になって企画してくれた人だった。それが今や「山頭火」のトップ。ぼくはあまりラーメンを食べないので、「山頭火」のラーメンを食べたのは初めてだったが、塩ラーメンはとてもおいしかった。

 旭川には午後2時頃に到着し、ホテルで少し休んでから、夕方、2条3丁目左1にあるミュージック・カフェ・バー「アーリータイムズ」(http://www.early-times.com/ )へ。古い煉瓦造りの倉庫を改造したお店だ。 
 この倉庫は、70年代前半からライブができるお店となっていて、その頃は「空想旅行館」という名前、それから「旅行館」になって、80年代に入ると「邪図院 志乃」、そして1996年からは野澤尚司さんがオーナーの今の「アーリータイムズ」となっている。
 ぼくは「空想旅行館」の時も「邪図院 志乃」の時も、そしてもちろん「アーリータイムズ」になってからも、この倉庫に何度も歌いに来ていて、確か70年代の中頃、真冬にここに歌いに来た時は、手に入れたばかりのマーティンD-35を、ライブを終えた後、ケースに入れてお店の一階のステージの上に置いておいたところ、翌朝ケースを開けてみると、零下20度の寒さに、表板の塗装がパリパリに割れてしまっていたことをよく覚えている(ショック!!)。
 また80年代の終わりか90年代の初めに、旭川出身の片桐麻美さんと一緒に「邪図院 志乃」に歌いに来た時は、それまで何年間もずっと歌っていなくて、ほんとうに久しぶりに人前で歌うことになったので、めちゃくちゃ緊張したというか、すごくあがってしまったことをよく覚えている(ガチガチ!!)。

「アーリータイムズ」に着き、ビールをごちそうになりつつサウンド・チェックを終えると、野澤さんがぼくの赤ワイン好きのことをよく知っていて、赤ワインを何本も買いにいってくれ、それを早速あけて、開演前にぐびぐび飲んだものだから、かなりいい酔い心地でライブを始められた。
「はなれていれば思いはつのる」から「ビッグ・スカイ」まで、特別にリクエストされた「コール・タトゥー」も含め、13曲をパワー全開で歌い、アンコールをもらったので、高田渡さんが天に帰った日のことを歌った「2005年4月16日」を15分近くかけて歌ったら、その場の雰囲気が重く沈んでしまい、「そんな歌を歌ってしまったら、もうそれ以上歌ってとは頼めなくなってしまうよ」と、野澤さんに言われてしまった。
 ライブが終わる頃には、ワインをほぼ一本飲み干し、それから「アーリータイムズ」恒例のみんなでの打ち上げ(今夜はジンギスカン鍋!!)。でも二本目のワインに手を伸ばし、それもぐびぐび飲み始めたものだから、すごく酔っぱらってしまい、ヘロヘロ状態になって(というかあまり記憶にない)、ライブを聞きにきてくれていた女性の車でホテルまで送り届けてもらった。そして沈没。
 十勝岳温泉でのんびり、ゆったりしたものの、一日三回歌った昨日の疲れが、完全にとれていなかったのかもしれない。子どもたちと一緒の午後では、ほんとうにくたくたになってしまったしね。それともただの飲み過ぎ⁉

ぼくって売れっ子? 一日のうちに三カ所で歌う。 2008年07月05日(土)

 6月28日の朝8時半頃、「唯我独尊」の宮田均さんが「すみれ旅館」にぼくと末森樹さんとを車で迎えに来てくれて、そのまま「唯我独尊」と道を挟んだところで開かれている朝市へ。それから宮田さんのお宅にお邪魔して、朝市で仕入れた新鮮な野菜を中心に、おいしいおいしい朝食をごちそうになる。トマト、プチ・トマト、トマトベリー、スナックえんどう、細長いししとう、きゅうりなどなど。みんな野菜本来の味と匂いがしてほんとうにおいしい。ほっけの燻製や納豆、目玉焼きなどもいただく。ごちそうさま。
 それから宮田さんの車で、原始の森に立ち寄って湧き水などを飲みつつ、のんびりと富良野から上富良野町まで送ってもらう。ゆっくりと向かったので、「ふらの・ものがたり文化の会」の大西邑子さんたちとの待ち合わせ場所のレストランに到着したのは12時過ぎ。子どもたちと一緒の「おはなしたんけん隊」の集まりは、そこから少し離れた上富良野町公民館で1時から始まるというので、みんなとてもあせっていた。ちょっとのんびり向かいすぎてしまった。みなさん、ご心配かけて、気を揉ませて、すみませんでした。

 今回の「ふらの・ものがたり文化の会」主催の「伝統文化子ども教室事業 おはなしたんけん隊」のテーマは、「からだで読む『かしはばやしの夜』(宮沢賢治作) おとをさがしてうたをつくろう」というもので、6月14日から7月12日までの間の四回の土曜日にわたって行なわれる。
 最初の土曜日、6月14日は「音をみつけにいこう」で、参加した子どもたちみんなが雨まじりの神社に出かけて行き、雨の音や風の音、花や木の葉が風に揺れる音を聞き、それをオノマトピアにして短い詩にした。そして6月28日の「みつけた音をうたにしよう」で、ぼくや末森樹さん、それに地元の上富良野のミュージャンの三人が、その子供たちの詩に、子供たちと一緒になって曲をつけるのだ。
 そしてこの「おはなしたんけん隊」の集まりは、7月5日の「狂言のなかの音とうた」、7月12日の「『かしはばやしの夜』を声に出してみよう」へと続けられていく。

 会場の上富良野町公民館の第一研修室に行くと、小学生、中学生など、さまざまな学年の子供たちが20人ほど集まっている。まずは司会の中学生に紹介されて、ぼくは宮沢賢治の『かしはばやしの夜』の中の大王のうたに、ほとんどその場で曲をつけたものを歌う。

「雨はざあざあ ざっざざざざざあ
 風はどうどう どっどどどどどう
 あられはぱらぱら ぱらぱらったたあ
 雨はざあざあ ざっざざざざざあ」
 (A/G/A/A D/C/DD F♯m/Em/F♯m/F♯ A/G/A/A/A/A/A/A)

 それから三つのグループに分かれて、子どもたちの詩をもとに曲作りをする作業に移った。与えられた時間は40分もなく、ぼくは六、七人の小さな子どもたちと一緒に40分ほどで4曲作ったが、小さな子どもたちの集中力はなかなか持続せず、その場でどんどん曲を作っていかなければならないので、メロディを丁寧にあてはめるのではなく、どうしてもコード中心になったり、ありきたりのコード進行、循環コードに頼った曲作りになってしまう。そして小さな子どもたちはすぐにも曲作りに飽き、ぼくのギターをかきむしったりして遊び始める。すごく乱暴に弾いたりするので、傷がつかないかびくびくものだった(と言いながら、自分はそのギターを抱えて、思いきりジャンプしたりしているのに)。
 4曲できたと思ったが、そのうちの2曲はキーが違うだけで、まったく同じコード進行、同じメロディ、すなわちまったく同じ曲だった(赤面、赤面)。

 ぼくは子どもたちのこんなオノマトピアの詩に曲をつけていった。

「白雲木の実 シャカシャカ 小さい実 ふくきてる」
 (G/G/C/C G/G/D/D)

「ふきの葉に ぽっぽっぽっぽっ ぽっぽっぽっぽっ
 ぽつぽつぽつぽつ ぽつぽつぽつぽつ
 ぽっぽっぽっぽっ ぽつぽつぽつぽつ ぽた
 雨がきた」
 (C/G/C/C C/Bm/Am/G C/Bm/Am/G
 C/Bm/Am/G C/Bm/Am/G
 C/Bm/Am/G C/Bm/Am/G Am/Am
 F/G/C/C)

「雨がぽとぽと ざーざ
 ぽとぽとぽとぽと ざーざ しゅう
 ぽと ざーざ しゅう」
 (D/D/G/G
 D/D/A/A D/D
 D/D/G/G
 D/D)

 最初の「白雲木の実」の歌は、途中から子供たちが同じメロディで「シャカシャカ シャカシャカ シャカシャカ/シャカシャカ シャカシャカ シャカシャカ」と擬音語、すなわちオノマトピアだけを歌い、それをバックにぼくが子どもの詩を繰り返し歌っていく。すごく単純な曲だけど、歌っていてとても楽しかった。
 
 一時間ちょっとで曲作りの作業は終わり、それから少し休憩してから、作った歌の発表会。ここでもまた「かしはばやしの夜」の大王のうたを歌ったが、最初に歌った時とまるで違うものになってしまった(それが即興曲のさだめであり、面白さ)。
 続いて末森樹さんとぼくのミニ・コンサートに突入する。コンサートには、子供たちの親たち、それに学童保育の小学校低学年の子どもたちも参加し、ぼくは「ファーブルさん」、「動物たちの恐ろしい夢の中に」、「For A Life」、「イマジン」、「虹の民」の5曲を歌ったのだが、小学校一、二年生の子どもたちは、いきなりぼくの「小難しい」歌を聞かされても、楽しいわけがなく、ずっと我慢して、ほんとうにつらそうにしているのがとてもかわいそうだった。
 選挙の応援に行って、そんな場で自分の歌える歌がほとんどないことに気づかされた時と同じように、今回もやっぱり子どもたちのための歌を何も歌えない自分に気づかされ、子どもの歌も歌えるようにならなければと痛感させられた。それも子どもたちにおもねるような子どもの歌ではなく、ほんとうの子どもたちのための子どもたちの歌を。ぼくがピート・シーガーのようなフォーク・シンガーを目指すなら、そうした歌も歌えるようにならなければならない。そうした歌も歌いたい。そう、ぼくはピート・シーガーの影響を受けてフォーク・ソングを歌い始めたわけだし……。

 子どもたちとの大急ぎでの曲作り、たくさんの小さな子供たちを前にしてのコンサートと、慣れないことばかりで、緊張させられ、終るとけっこうくたくたになってしまった。しかしその日、28日の夜は、中富良野の山荘カフェ「十年館」での「お気楽ライブ」がある。
「十年館」は、その名のとおり、山の上にある、完成するまでに十年かかった山荘。ライブは、おにぎりやサンドイッチ、生のベーコンやサラダ、デザートなどなど、いろんな手作りのおいしい食事とコーヒーがついて2000円ぽっきり。アルコールの持ち込みもOKで、ぼくは大西さんが用意してくれていたフランスのメドックのおいしい赤ワインで口を潤しながらライブに挑んだ。
 中富良野や上富良野の有名人や近所の人たちなど、山荘でのライブは満員の盛況で、こちらは大人中心というか、ぼくと同世代の人も多くて、自分のこれまでの歩みやそれぞれ歌の説明などをゆっくりしながら、いつものようにじっくりと歌うことができた。

 終ってから今夜の宿泊先の旅の宿「ステラ」にギターと荷物をひとまず置きに行き、それから「十年館」でのライブに来てくれて、いちばん前で聞いてくれていたママのいるスナックへ。店に入ると、みんなカラオケをやっていて、「何か一曲」と言われてしまったが、ぼくはカラオケが大の苦手で、しかも知っている曲、歌える歌もほとんどないので、丁重に辞退させていただいた。
 そして再び「ステラ」に戻ると、そこの宿泊客と宿のご主人夫妻とが、リビング・ルームでワインなどを飲みながら、楽しそうに話をしている。ワイン飲みたさに、ぼくもそこに加わると、愛称シロクマくんこと、「ステラ」のご主人の朝倉修さんが、ギターを二台も持ち出して来るではないか。そして「何か歌ってください」と、リクエストされてしまった。
 それならばと、ぼくは自分のギターを部屋に取りに行き(やっぱり弾き慣れているし)、ゆるめていた弦を張って、2曲ほど歌わせてもらった。ということで、この日は何と一日のうちに三カ所で歌を歌うことになってしまった。もしもスナックでも歌っていたとしたら、四カ所になっていたというわけだ。
 長い一日。くたくたになって宇宙のポスターを見ながら、ぼくは「シリウス」と名付けられた旅の宿「ステラ」の素敵な部屋で夢路についた(今夜の夢には猫は出てこないだろう。きっと星座が出てくるかな? それともカラオケ?)。

32年ぶりに富良野で歌う。 2008年07月03日(木)

 6月27日から30日まで、三泊四日で北海道の富良野と旭川に歌いに行って来た。
 そもそもは6月28日の土曜日の昼間、ふらの・ものがたり文化の会が主催し、上富良野町教育委員会が後援する、伝統文化子ども教室事業「おはなしたんけん隊」の『おとをさがしてうたをつくろう』という子供たちのための集まりのために呼ばれたのだが、東京から富良野までせっかく行くのだからと、その前後に富良野周辺で二カ所歌う場を設けてもらった。せっかく行くのに一カ所だけではもったいないということもあったが、実情を言えば、一カ所だけでは交通費や宿泊費など経費が捻出出来ないということもあったのだ。
 そして東京から富良野までせっかく行くのだからと、ぼくも旭川のライブ・ハウス「アーリータイムズ」の野澤尚司さんに連絡して、29日の日曜日の夜、そこでライブをやらせてもらうことにした。それで三日間のうちに何と四カ所で歌えることになった。

 ぼくがふらの・ものがたり文化の会に呼ばれることになったのは、その会の主宰者の大西邑子さんが、東京でぼくのライブをいっぱい企画してくださっているoffice otonofuの末森英機さんと古くからの知り合いだったからで、大西さんは東京でのぼくのライブも聴きに来てくださっていた。
 というわけで、今回の富良野行きには、ギタリストで末森英機さんの息子さんの末森樹(たつる)さんも同行することになった。羽田空港のゲートで顔を合わせると、彼は北海道旅行は初めて、しかも飛行機も初めてということで、とても緊張していた。ゲートでは、富良野での大きな音楽祭に出演するというKyonさんにもばったり。今年の春一番の話や、湘南に引っ越したリクオさんなどの話で盛り上がった。
 旭川に無事到着して、樹さんに処女飛行の感想を聞くと、「すごく怖かった。気持ち悪かった。窓の外はまったく見られなかった」とのこと。12時25分羽田発のスカイマーク・エアライン605便は、それほど揺れなかったのだが、気流の悪いところを飛んだりして、すごく揺れる便だったりしたら、きっと樹さんは卒倒していたかもしれない。

 旭川空港に着くと、「唯我独尊」の宮田均さんが大きな車で迎えに来てくれていた。上富良野町公民館での「おはなしたんけん隊」の集まりに前後して、到着日の27日の夜は富良野市の「唯我独尊」で、28日の夜は中富良野の山荘カフェ「十年館」でライブができるよう、大西さんたちにアレンジしてもらっていた。
 富良野駅近くの東五条通りにある「唯我独尊」は、おいしいカレーやソーセージ、パンや地ビールを楽しめるお店として、富良野の観光名所のひとつとなっている。実は今から32年ほど前、1976年の夏に、ぼくは高田渡さん、佐久間順平さんと三人で一月近く北海道をツアーし、その時富良野でのコンサートをやってくれたのが宮田均さんで、ぼくらはその頃まだオープンしたばかりの「唯我独尊」の二階に泊めてもらい(建物はその当時とあまり変わらないが、二階は今はお店になっている)、その居心地のよさに何泊も長居をしてしまったのだ。
 その後「唯我独尊」のカレーやソーセージは富良野名物となり、宮田さんは東京のデパートなどで開かれる北海道物産展に店を出すようになったりもした。確か10年ほど前だったか、新宿の伊勢丹でその物産展が開かれた時、ぼくは渡さんと一緒に出かけて行って、久しぶりに宮田さんと再会することができた。その頃ぼくはしばらく歌うことから遠ざかったりしていたが、ずっと歌い続けていた渡さんは、76年以降も頻繁に富良野を訪れ、そのたびにいつも宮田さんと会っていた。
  
 旭川空港から「唯我独尊」まで、ぼくや樹さんを車で連れて行ってくれる途中、宮田さんが「昔来たあの時、五郎さんが言った一言が今も忘れられない。よーく覚えている」と、いきなり話し始めた。何を言ったのかぼくはまったく覚えていない。どんなすごいことを言ったのだろうか?
「二階でみんなで麻雀していた時かな」と、宮田さんが続ける。「五郎さんが突然叫んだんだ。『ネオンが恋しーーい』って」
 そういえば都会が恋しくて、そんなことを叫んだような記憶が微かにある。旭川のサウンド企画がやってくれたその時の渡さんたちとの一ヶ月ツアーは、道北、道央のいろんな街、ほんとうに小さな町までをも30カ所近く回るというもので、夜がすごく寂しいところも多く、その頃の富良野も実に静かな街だったのだ。

 最初は富良野スキー場の近くにある「山の独尊」こと「富良野地麦酒館 唯我独尊」でやる予定だったぼくと樹さんのライブは、そこが休業中ということで、会場が「唯我独尊」の駐車場に変更となっていた。ケーブル用の大きな木の輪がテーブルとなり、椅子もセッティングされ、マイクやスピーカーも用意される。
 おいしい鹿肉のシチューや何種類ものサラダ、ソーセージやパスタ、パンなどが用意され、参加者は地ビールが三杯も飲めるという、まさに夏の夜のガーデン・パーティだ。しかも実際始まってみると、どくそん地ビールの樽が、ピルスナーもダークもたくさん用意されていて、三杯の制限などどこへやら、結局は飲み放題に。
 ぼくも午後に到着してライブが始まるまでに四、五杯、ライブ中に二、三杯、ライブが終わってから六、七杯と、ダークとピルスナーの二種類のおいしいおいしいどくそん地ビールをぐびぐび味わわせてもらった。到着してすぐにおいしいおいしいソーセージ・カレーもごちそうになったし、ガーデン・パーティのおいしいおいしい料理も堪能して、実にしあわせ(一方、樹さんは地ビールの樽を運ぶのを手伝ったり、会場の設営を手伝ったりと、大忙し)。

 とはいうものの、実は開演時間の7時になっても、駐車場ならぬ特設ガーデンにお客さんは一人も来ず、「あらら、富良野に来ても、またいつものぼくのライブのパターン」と、内心すごく落ち込んでいたのだ。しかし7時を10分、15分ほど過ぎると、一人、二人、二人連れ、三、四人のグループと、人が次々とやってきて、開演時間をかなり押して、宮田均さんの息子さんの寿丸さんがギターを弾きつつ歌い始める頃には、特設ガーデンの椅子がいっぱいに。嬉しい。すごく嬉しい。
 宮田寿丸さんの熱く力強い歌の後には、末森樹さんが繊細で表情豊かなギター演奏を披露し、ぼくもおいしい地ビールがとても効いたこともあってか、80分ほどたっぷりと歌わせてもらった。アンコールで、「32年前に富良野に来た時もきっと歌ったはず」と「ミー・アンド・ボビー・マギー」を歌ったら、その後で「『腰まで泥まみれ』をどうしても生で聞きたい」とお客さんの一人からリクエストされ、それも歌うことに。

 歌い終えて、おいしいおいしい地ビールをぐびぐび飲み(歌い終わった後のビールはほんとうにおいしい。歌う前のビールも、歌っている途中のビールももちろんおいしい)、後片付けが済んだところで、樹さんとぼくは今夜の宿泊先の「すみれ旅館」に宮田さんに車で送ってもらう。
 ギターや荷物を部屋に置くと、今もネオンがほとんどない夜の富良野の街に三人で繰り出し、ブルース・バーの「傷つく森の緑」へ。
 「キズモリ」こと「傷つく森の緑」マスターは、「唯我独尊」のライブを聞きに来てくれていて、ぼくと宮田さんが赤ワインを一本飲み干す間に、今日のライブのこと、樹さんのギターのこと、渡さんやシバさん、中川イサトさんのこと、エリック・クラプトンやB.B.キング、ブルースのこと、自分がニューヨークに暮らしていた時のことなど、面白く、ためになる話を、ノンストップで熱く語って聞かせてくれた。
 ぼくの歌も気に入ってもらえたみたいですごく嬉しい。それに次の日だったか、宮田さんに「32年前に来た時は、歌もギターも下手で、何だか弱々しかったけど、今回はとてもパワフルで見直したよ」と、ぼくのライブについて言われたこともとても嬉しかった。相変わらず歌もギターも下手なままのぼくだけど、歌うことの楽しさや充実感は、あの頃とはすごく違ってきているように思う。
 富良野到着の夜、「唯我独尊」のおいしい地ビールと「傷つく森の緑」のおいしい赤ワインで大満足したぼくは、宮田さんに案内され、樹さんと一緒に歩いて「すみれ旅館」へ。
 室外も室内も猫がいっぱいうろちょろしている旅館で、その夜は猫におしっこをかけられている夢を見てしまった。翌朝起きて枕の匂いを嗅いでみると、そこからはほのかに猫のおしっこの匂いが……。

ぼくはニール・ダイアモンドのファン?! 2008年06月26日(木)

 ジェイコブ・ディランのソロ・アルバム『seeing things』があまりにもよかったものだから、ニール・ダイアモンドの2005年のアルバム『12 SONGS』をamazon.co.jpで買ってしまった。
 ジェイコブ・ディランとニール・ダイアモンド⁈ あまり繋がりはなさそうだが、実はジェイコブのアルバムは、ビースティ・ボーイズやレッド・ホット・チリ・ペッパーズとの仕事で知られ、現在はコロムビア・レコードのトップにいるリック・ルービンがプロデュースしていて、音数を極限まで減らし、本人の歌とギターだけにこだわったシンプルな音作りを、彼はジェイコブのアルバムの前に、ジョニー・キャッシュやニール・ダイアモンドのアルバムのプロデュースですでに手がけていたのだ。

 ニール・ダイアモンドといえば、60年代の初めから活躍している、今年67歳になるアメリカの超大物アーティストで、60年代の後半から70年代の初めにかけて、モンキーズの曲を書いたり、「Sweet Caroline」や「Song Sung Blue」といったヒット曲を出していた頃は、ぼくも熱心に耳を傾けていた。「Mr.Bojangles」を歌っている1969年の『Touching You, Touching Me』というアルバムやその前に出た『Brother Love’s Travelling Salvation Show』というアルバムも愛聴していたが、70年代に入ってからは、やたらとゴージャスというか、コテコテのシンガーになってしまい、ぼくはほとんど聴かなくなっていた。
 しかしジェイコブ・ディランの『seeing things』があまりにも素晴らしく、そのアルバムのプロデューサーのリック・ルービンが、ニール・ダイアモンドのアルバムでも同じような音作りというか、プロデュースぶりを発揮していて、しかも大評判になっているということであれば、これは手に入れて耳を傾けないわけにはいかない。ということで、ほんとうに久しぶりにニール・ダイアモンドのアルバムを買うことになったのだ。

 ニール・ダイアモンドのアルバム『12 SONGS』は、そのタイトルどおり、アルバムのために書き下ろされた12曲が収められている(ぼくが買った二枚組の限定盤は、ボーナス・トラックが2曲と、それぞれの曲のデモ・テイクや別テイクが収められている)。ラブ・ソングや、年齢を重ねていく人生のことが歌われた曲、神への信仰が歌われた曲などが収められていて、確かにアコースティックな、楽器の数を最小限に抑えた音作りがなされている。
 しかも参加ミュージシャンは、トム・ペティ&ザ・ハートブレイカーズのマイク・キャンベルやベンモント・テンチ、オルガンのビリー・プレストンやピアノのラリー・ネクテルなど強者揃いで、素晴らしい演奏を聞かせてくれる。その演奏やリック・ルービンの見事なプロデュースぶりには感心したのだが、ニール・ダイアモンドの朗々とした歌いぶりというか、あまりにもうますぎる歌、切々と歌い上げる感じは、やっぱりぼくはあまり好きにはなれなかった(実はそこがニール・ダイアモンドという歌手のいちばんの魅力なのだが)。
 しかもメロディや歌詞も、ジェイコブと比べたりすると(そもそも比べるのがおかしいけど)、とてもふつうで、一般受けはするのだろうが、味わいや深みに欠けるような気がした(ごめんなさい、ニールさん)。せめてもう少し訥々と歌ってくれたら、そのアルバムがもっと好きになれるのに、そんなことを歌い上げシンガーのニール・ダイアモンドに要求すること自体、ちょっと無理があるというものだ。

 とはいうものの、ぼくはニール・ダイアモンドの『12 SONGS』が妙に気に入ってしまい、ジェイコブ・ディランの『seeing things』と同じように、ヘビー・ローテーションで繰り返しかけ、気がつくと彼の歌を一緒に口ずさんだりしている。
 ぼくがニール・ダイアモンドを愛聴しているだけでも変なのに、あまつさえぼくは『12 SONGS』の続編として今年リリースされたニール・ダイアモンドの最新作『HOME BEFORE DARK』までamazon.co.jpで購入し(こちらもリック・ルービンのプロデュースで、『12 SONGS』と同じ路線の曲作り、音作りがされている)、『12 SONGS』と取っ替え引っ替えCDプレイヤーに入れて、耳を傾けている。もしかしてぼくはニール・ダイアモンドのファンになってしまったのかもしれない。

本日発売の雑誌『ATES』、読んでください。 2008年06月24日(火)

 今日6月24日発売の月刊誌『ATES/アテス』(阪急コミュニケーションズ)の中に「中川五郎が東京の名店を案内 懐かしの喫茶店に行こう。」というカラー20ページの記事が載っています。いろんな喫茶店にいるぼくの写真がいっぱい使われていて、喫茶店についてのちょっとした文章も書いています。ぜひ見て下さい。
 写真を撮ってくれたのは江森康之さん。長身の二枚目で、ぼくのいちばん好きな作家、車谷長吉さんの小説『赤目四十八瀧心中未遂』が荒戸源次郎さんの監督で映画化された時、スチール写真を撮影した人です。江森さんはその写真集も出しています。喫茶店特集のモデルは、煩悩の犬を追い払うことができず、ちょっとうらぶれていますが、とてもいい写真ばかりです。
 6月8日に下北沢の無寸草でライブをやった時には、喫茶店特集を担当したATESの美人編集者と一緒に見に来てくれ、お二人にはぼくのCDも買っていただきました。嬉しい。7月に入ると、みんなで「打ち上げ」の飲み会をする予定です。とても楽しみ。
 第一特集が「医療の疑問に答えます。」というシリアスなものなので、喫茶店の特集の方もなかなか渋く仕上がっています。気取って写真におさまりつつ、中川五郎は消滅の危機に瀕している日本の「喫茶店」文化について、ちょっと真面目に考察しています。
 ぜひ買って読んでみてください。680円です。

ジェイコブの望遠鏡 2008年06月20日(金)

 ジェイコブ・ディラン(Jakob Dylan)のアルバム『シーイング・シングス/seeing things』(ソニー/スターバックス)が素晴らしくて、毎日繰り返し耳を傾けている。
 ジェイコブ・ディランはその名字からもわかるようにボブ・ディランの息子で、1965年の秋から77年の秋まで、12年間結婚生活を続けた、ボブとサラ・ラウンズのもと、1969年12月9日に、四番目の末っ子として生まれている。
 ジェイコブは十代の頃から学校の仲間とバンドを組んで音楽活動を始め、1989年にロサンジェルスでザ・ウォールフラワーズを結成し、このバンドは1992年のデビュー・アルバム『The Wallflowers』から、2005年の『Rebel, Sweetheart』まで五枚のアルバムを発表し、最後のアルバム以降はあまり活発に活動していないが、正式な解散宣言は行なわれていない。そんな状況の中、この六月にリリースされたのが、ジェイコブ・ディランの初めてのソロ・アルバム『seeing things』だ。
 このアルバムのことやジェイコブについては、今月の末あたりにシンコー・ミュージックから発売される音楽雑誌『ザ・ディグ』に原稿を書かせてもらい、「遠回り」や「確信犯」をキーワードに、かなり面白い原稿が書けたとうぬぼれているのだが、果たして読んだ人はどう思うだろうか? ぜひとも雑誌を手に取って読んでみてほしい。

 それにしてもジェイコブの『seeing things』は、ほんとうに素晴らしく、ザ・ウォールフラワーズではロック・バンドの中心人物というイメージが強かった彼だが、ソロ・アルバムでのジェイコブは天性のフォーク・シンガーで、コンテンポラリーでありながらも、クラシックというか百年前に歌われていてもおかしくないような、まさに時空を超えた、永遠の名曲を書き、歌い、演奏している。
 アルバムには10曲の歌が収められていて、どの歌も文句なしの素晴らしさで(素晴らしいを連発し過ぎ? 語彙が乏しくて恥ずかしい)、そのほとんどがジェイコブのアコースティック・ギターの弾き語りのスタイルで歌われ、ほかのミュージシャンが参加するにしても、控えめにギターを演奏したり、リズムをつけたり、コーラス・ハーモニーをつけるだけにとどまっている。

「邪悪なものは/しっかりと生き続けている/立ち上がって、やぐらの上から知らせよう/邪悪なものはしっかりと生き続けていると」 と、歌われるオープニング・ナンバー「Evil Is Alive And Well」や「安全な遊び場の下は/酷いことになっている/手引書も訳が分からない、ハイホー/肉を切るのか/切られる子羊になるのか/どっちにしても、生きていくのに何かを支払っていくのはつきものさ」と歌われる「Everybody Pays As They Go」、「昼も夜も山の上に向かって/光が道筋をつくっている/たとえ深く落ち込んでも/君は自分自身の揺るぎないものを引き渡したりしない」という「On Up The Mountain」など(対訳はすべて『シーイング・シングス』のソニーからの日本盤についているブックレットの綿内克幸さんによるもの)、どの歌も、先に書いたように、今の時代、そこに生きている人々を歌っているようにも、百年前の物語が歌われているようにも思え、すでにトラディショナル、クラシック、スタンダードの「風格」を獲得している。

 ジェイコブ・ディランの書く歌詞は、説明的でも具体的でも論理的でもなく、イメージが飛び交い、メタファーに満ち、絵画的で感覚的で、聴き手によってさまざまな解釈ができる。その素晴らしさ(あっ、また使ってしまった)は、父親に匹敵しているとぼくは思う。
 これからもずっとぼくは飽きることなく、ジェイコブ・ディランの『seeing things』を聴き続けることだろう。シンプルで飾り気がないけど、それだけに聴けば聴くほど味わい深くなっていく、そんな音楽、そんなアルバムだ。

「日陰の中、ハイウェイの路肩をさまよいながら
 はるか向こうの裏手を目指す
 陽射しは過去へと燃え続ける
 太陽も二度昇るほど愚かじゃない
 ゴロゴロとうるさい雷のせいで眠れない
 当てにならない世界を掘り起こせば
 雪で覆われた浜辺とディーゼルの廃棄場
 女の名前が付いた爆撃機
 混雑に対応出来ない凍った橋には
 新種の怪物が生まれている
 事実は小説よりも奇なり
 そいつは奇妙な言葉を喋る
 太陽が昇りきらない谷で」
(ジェイコブ・ディラン「Valley of The Low Sun」より。綿内克幸さんの対訳)
 

テレビよ、おまえはいったい何者なのだ? 2008年06月17日(火)

 6月14日の土曜日の朝8時40分過ぎ、まだベッドで寝ている時、不気味な横揺れを感じた。「あっ、地震だ」と、すぐに気づいたが、揺れはそれ以上大きくなることはなく、東京での小さな地震なのか、それともどこかで大きな地震があったのか、急いで確かめることもなく、また眠りに戻ってしまった。

 ぼくは新聞をめったに読まないし、テレビもあまり見ない。それにその週末はパソコンが手もとになく、インターネットでニュースを見る環境にもいなかった。16日の月曜日になって初めて、14日朝の地震が、岩手県や宮城県で起こったマグニチュード7.2の大きな地震だったということを知ったのだ。

 それでテレビを見てみると、ニュースやワイド・ショーはこの岩手・宮城内陸地震を大きく取り上げていた。テレビを見ることによって、ぼくは初めてこの地震の大きさ、恐ろしさ、被害の大きさを知った。しかし地震で生き埋めになった人が見つかり、運び出される場面を見て、「これは何かおかしい」、「いくらなんでもやりすぎだ」、「テレビはどこか狂っている」とさえ思ってしまった。残念なことに、生き埋めとなって運び出された人は、助からなかった。
 救助の人たちによって生き埋めになっていた人が担架にのせられて現場から運び出されてくると、そこに家族の人たちが近づき、奥さんが「お父さん!」と悲鳴を上げ、その場に倒れ込んでしまう。それをテレビのカメラが克明に捉えるのだ。それもご丁寧にライトまであてて。

 自分たちにとってかけがえのない人たちが見つかったけど、無事ではなかった。それを初めて知るあまりにもつらすぎる瞬間。それをテレビは撮影する必要があるのか? それをテレビで全国に、世界に流す必要があるのか?
 当事者にとってはあまりにも残酷すぎるその瞬間、テレビ・カメラはレンズを地面に向けて黙祷すべきではないのか? レポーターは必死でコメントを求めるのではなく、黙るべきではないのか? 祈るべきではないのか?
 それを日本のテレビ・カメラは、その場面を執拗に追い回し、レポーターは大切な夫を、親を、家族を失ったばかりの人にマイクを突きつける。「今のお気持ちは?」なんて、そんなこと聞かなくても決まっているじゃないか。そんなことすらわからないのか。あるテレビのレポーターは、親を失ったばかりの若者にマイクを突きつけていた。「言葉にはなりません」と、若者はそれでも精一杯答える。レポーターは「いいコメントをとったね」と、上司から誉められるのだろうか。

 テレビに関わっている人たちはきっと言うことだろう。「みんなが見たがっているから、自分たちはそうした映像を一生懸命撮り、みんなが聞きたがっているから、心を鬼にしてコメントを取る」と。でもほんとうにそうだろうか? みんながみんなそんな場面を見たがっているだろうか? 何度も何度も繰り返し見たがっているだろうか?
「生き埋めになっていた人が発見されましたが、残念ながら助かりませんでした。家族は激しい悲しみに襲われています」
 そう言葉で伝えてもらうだけで、ぼくらは何があったのかがよくわかるし、その悲しみやつらさも痛いほどわかる。ニュースはそれさえ伝えれば十分だ。それがニュースというものだ。
 それを日本のテレビは何を勘違いしているのか、現実の悲劇までをもショーにして、それこそ「エンタテインメント」化して伝えようと躍起になっている。そしてそうしている自分たちがどこかおかしいのだということにまったく気づいていない。常軌を逸しているという感覚がない。それどころか自分たちがすごいことをしているように錯覚している。神経が麻痺してしまっている。
 現場からの「無神経」な映像が送られて来ても、スタジオのニュース番組のキャスターたちは何の疑問も感じたりはしない。そして割り当てられた時間が来て、その報道を終えると、「では次の話題です」などと言って、何がおいしい、どこでなら安いランチがお腹いっぱい食べられるといったような「くだらない」情報を嬉々として伝えたりしている。
 それがニュース番組の、ワイド・ショーの宿命だと言ってしまえばそれまでだが、あまりにも無神経過ぎはしないか? ひとりひとりのあまりにも大きすぎる悲しみやつらさを、適当に弄んでいないか?

 岩手・宮城内陸地震の報道だけでなく、秋葉原の殺人事件にしても、ほかのいろんな事件やできごとにしても、何もわざわざ流さなくてもいいことを、日本のテレビは流しすぎてはいないか? 連行されたり、検察庁に送られたりする容疑者や犯人の姿を、なぜあんなにまでがむしゃらになって撮影しようとするのか? バイクで追跡するのか? みんなが見たがっているから。いや、そんなの見たくない人だってたくさんいるのだ。
 神経が麻痺して、鈍感になっているくせに、テレビは手錠を写すことだけには敏感になって(もちろんそれなりの理由があるのだろう)、そこに必ず「ぼかし」を入れる。そんなことに気を遣うより、もっと大切なこと、もっと大きなこと、もっと根本的なことに気を遣ったらと、ぼくは思ってしまう。

 現実のすべてをショーにし、エンタテインメント化し、人々の暮らしの中にずけずけと入り込み、それをからかい、馬鹿にし、弄び、お節介をし、ドラマにしてしまおうとする、今の日本のテレビは絶対におかしいとぼくは思う。いやだったら、見なければいいと言われるだろう。でもそれだけでは済まされない問題だ。
 まるで自分たちが世界でいちばん偉いかのように、驕り、高ぶり、まるで自分たちが世界のすべてを動かしているかのように錯覚している、テレビよ、おまえはいったい何者なのだ?

マイ・ブームその3、マジッド・マジディ 2008年06月16日(月)

『結婚しなくていいですか。』を読んで、益田ミリさんをすっかり気に入ってしまったぼくだが、彼女の4コママンガ『OLはえらい』(2001年に単行本がいそっぷ社から出版され、2006年に文春文庫PLUSで文庫化されて、その時にマンガが全部描き直され、微妙な部分や全体の色合いも変えられている)を読んでいたら、イラン映画が登場する場面があった。
 主人公のOL、ロバ山ロバ子さんが、同僚のリカちゃんと杉ちゃんに「明日、映画行かない」と誘ったところ、自己主張があって、何でもはっきりと言う杉ちゃんに、「わたしパスする。見たいイラン映画があるからそっちにする」と断られてしまうのだ。ロバ子さんはその時初めてイラン映画の存在を知り、会社の帰りにレンタル・ビデオでイラン映画を借りる。
 それがマジッド・マジディの『運動靴と赤い金魚』で、それを見たロバ子さんはとても感動して、すぐに弟にも勧めるのだが、弟は「金魚なんか興味ねーよ」とまったく相手にしてくれない。ロバ子さんは自分も初めてイラン映画を見たくせに、「みんなも、もっとああいうイラン映画とか見ればいいのに」と憤慨する。

 ぼくは日本の映画状況はかなり進んでいて、これほど世界各国の映画を、しかもインディーズの作品まで見られる国はちょっとないのではないかと思っている。映画に限らず、音楽にしても文学にしても、日本はほかの世界の文化にすごく関心が高い。その比重があまりにも欧米寄りなのは、ちょっと問題なのだが…。
 話をイラン映画に戻すと日本では以前からイラン映画がたくさん公開されていて、アッバス・キアロスタミやモフセン・マフマルバフなど、数多くの作品が紹介され、人気もあれば、高く評価されている監督がたくさんいる。ロバ子さんが感激した『運動靴と赤い金魚』のマジッド・マジディ監督もその一人で、何本もある彼の作品は、日本で劇場公開された時も大評判だったし、ビデオ化されてからも、とても人気が高い。
 ロバ子さんはたまたま知らなかったが、杉ちゃんのように早くからイラン映画に注目し、その良さがよくわかっている人たちは、日本の映画ファンの中にたくさんいる。もちろんそういう人たちがいるからこそ、日本でそうした「欧米」以外の素晴らしい映画が数多く公開されることが可能となっているのだ。

 ぼくはアッバス・キアロスタミの作品もモフセン・マフマルバフの作品も大好きだが、ここのところこのマジッド・マジディの作品に“はまって”いて、ちょっとしたマイ・ブーム(まだこんな言い方するのかな)になっている。
 マジッド・マジディ(Majid Majidi)は、1959年テヘラン生まれで、14歳の頃からアマチュアの劇団で役者をするようになり、その後テヘランの演劇学校で、本格的に演技を学んでいる。
 1979年のイラン革命後、マジディは映画に興味を抱くようになり、さまざまな映画に出演。1989年にマフマルバフ監督の『ボイコット』に出演して注目を集めたが、それ以前、すでに80年代の初めから、自らが監督として、短編映画やドキュメンタリー映画を作っている。
 長編劇映画デビュー作は1992年の『バダック/砂漠の少年』で、96年の『父』、97年の『運動靴と赤い金魚』、99年の『太陽は、ぼくの瞳』、2001年の『少女の髪どめ』と、マジディの長編劇映画は、日本でも順調に公開され、ビデオやDVDにもなっている。タリバンとの抗争下のアフガニスタンの難民キャンプやヘラートの街の生活を長期にわたって記録した、2002年のドキュメンタリー映画『Barefoot to Herat』も、確か『少女の髪どめ』のDVDで見たマジディ監督のプロフィールによると、日本で見ることができるようだが、残念ながらぼくはまだ見ることができていない。
 2002年の『少女の髪どめ』以降も、マジディ監督は2005年に『The Willow Tree』、今年2008年に『The Song of Sparrow』と、二本の長編劇映画を完成させている。これらが何かの映画祭とかで日本でも公開されたのかどうか、ぼくはよくわからないが、見ることができるのなら、ぜひとも、早く見たいと思っている。

 マジッド・マジディ監督の映画は、ロバ子さんが感動した『運動靴と赤い金魚』も、目の見えない少年が主人公の『太陽は、きみの瞳』も大好きだが、ぼくがいちばん心を動かされたのは、いちばん最近に見た『少女の髪どめ』で、この映画が訴えかける、無償の愛、何の見返りも求めない優しさや思いやりの大きさや強さに、激しく心を打たれ、ほんとうにいろんなことを考えさせられてしまった。
 アフガニスタンの難民の少女を何とかして助けようとするイランの若者の物語で、今の日本社会の、あるいは西欧社会の感覚や価値観からしたら、この若者のやっていることなど理解できないという人が数多くいるだろうし、悲しいことだけど、それこそ「笑って」しまう人すらいるかもしれない
 現実とリンクさせることなく、ありえないひとつの美談として終らせてしまいたい人もいるだろう。でもぼくはこの若者のような人間が現実にたくさんいると思うし、彼こそが人間の本来の姿なのだと思う。
 ともすれば美談となり、センチメンタルになってヒューマニズムに訴えかけてしまうような題材を、マジッド・マジディ監督は、決してそうした「情」に流されることなく、美しく印象的なシーンやエピソードを、こまやかに、丁寧に積み上げて行くことで、見た人が単に涙することだけでは終らない、深く考えさせられもする映画を作り上げることに成功しているとぼくは思う。
『少女の髪どめ』は、今、どこのDVDレンタルでも簡単に借りることができる。DVDには、9.11に絡めて綴られたマジッド・マジディ監督のこの作品についてのメッセージも収められていて、この文章も実に素晴らしい。
 そしてぼくは『少女の髪どめ』を見ながら、最近ぼくがいつもライブで歌っている二つの歌の歌詞の一節をふと思いだしたりしていた。
 ひとつは「For A Life」の中の、「生きるためには何が必要/ほんとうに必要なものは何」というところ。そしてもうひとつは都月次郎さんの「風を見る」の詩をもとにして作った曲の中に一緒に入れて歌っている、この詩人が「くらやみの言葉たち」と呼んでいる、こんな短い言葉の断片だ。

「自分のことで頭がいっぱいなとき
 ひとにやさしくはなれない。
 うしなうものがなにもないとき
 きっとだれにもやさしい。」

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