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       The World According to Goronyan


ナカガワゴロウの世界


ひとつひとつのライブを大切に。 2010年07月21日(水)

 ライブになかなか人が来てくれないということは、すでに何度も書いてきている。そしてライブに人が来てくれるようにするのは、まったく簡単なことじゃなく、手っ取り早い方法など何もないということもよくわかっている。

 自分の場合を考えてみよう。歌を歌っているこのぼくにしても、よっぽどのことがないかぎり、あるいはとても強い興味を覚えないかぎり、ひとのライブにはなかなか出かけて行かない。
 夕方、たとえば一日の仕事を終え、それから電車やバスに乗って遠くのライブ会場に出かけ、始まるまでひたすら待ったり、お目当てのミュージシャンが登場してくるまで、あまり感心しない共演者のステージを見たりして、結果的に何時間も費やし、へとへとになって夜遅くに家に帰る。
 ライブに行くのには、強烈な欲求とはかりしれないエネルギーが必要なのだ。もちろんライブ・チャージやドリンク代、あるいは食事代など、お金だって相当な出費となる。
 だから何でもかんでもライブに行くわけにはいかない。どうしても聞きたいと思わなければ、なかなか腰が上がらない。行くライブを厳選してしまう。そして意を決して行ったライブがつまらなかったり、期待に応えてくれないものだったりすると、「ああ、こんなんじゃ来なけりゃよかった」と思い、ライブ離れが進んで行く。
 満員の中じっと立ち続けていなければならなかったり、あるいは会場に煙草の煙がもうもうと立ちこめていたりしたら、ライブはもう懲り懲りという気持にもなってしまう。
 それでも、素敵なライブに行けば、そんなもろもろのことなどはもうどうでもよくなってしまう。それ以上の大きなものを受け取ることができる。来てよかったと心から思い、億劫がったり面倒くさがったりして来なかった人には、「ほんとうにもったいないことをしましたね、お気の毒」と言いたくなる。
 自分のライブがそんなライブに少しでも近づけるよう、ひとつひとつのライブを、心を込めて大切にやっていきたいと思う。

 7月15日から関西に歌いに来ている。17日は京都で、18日は兵庫県の舞子でライブをやった。
 京都は元田中にあるキッチン・ハリーナで西尾汀子さんとのジョイント・ライブ。舞子はこずみっくでのライブで、このお店には毎年7月に歌いに来させてもらっている。
 こずみっくでのライブを主催してくれるのは、まっちゃんことS松本さんで、彼はいろんな歌い手を呼んで、「まっちゃんライブ」を、ほぼ毎月のように行っている。その回数は優に100回を超えていて、今回のぼくのライブは何と130回目のまっちゃんライブになる。そして今回のこずみっくでのライブは、丸岡マルコ淳二さんとの共演だった。

 そもそも毎年7月にこずみっくで歌わせてもらうのは、吹田にあるマクロビオティック・カフェのPINOが毎年海の日にふちがみとふなととぼくとのジョイント・ライブをやってくれ、それで大阪まで来るからと、まっちゃんに声をかけ、PINOの前後にこずみっくでもライブをやることが恒例になったのだ。
 そして今年は大阪や舞子まで来るのだからと、そこに京都でのライブもくっつけ、キッチン・ハリーナでやれることになった。

 17日のキッチン・ハリーナでのライブは、西尾汀子さんがいろんな人に一生懸命声をかけてくださり、西尾さんの知り合いを中心に20人近い人が集まってくださった。キッチン・ハリーナはそれほど大きなお店ではないので、それだけ人が入ると、もう超満員という感じだ。
 西尾汀子さんの知り合いが中心ということは、汀子さんの歌は聞いたことがあっても、ぼくの歌を聞くのは初めてという方も多いはず。ライブは一期一会だとぼくは考えていて、初めて聞いてくださる人の前でベストの演奏をしなければ、「何だこんなものか」、「全然面白くない」と、二度とライブには足を運んでもらえなくなる。
 今さらだが、一期一会とは茶の湯で、茶会は毎回、一生に一度だという思いをこめて、主客とも誠心誠意、真剣に行うべきことを説いた語だ。桃山時代の茶人、山上宗二(やまのうえそうじ)の『山上宗二記』の中の「一期に一度の会」という言葉がもとになっている。

 もちろんどんな歌が好きか、どんな音楽が好きか、どんな歌い手が好きかというのは人それぞれで、ぼくが歌っているような歌をまったく受け入れられない人がいることもよくわかっている。ぼくだって万人受けする歌を目ざしているわけではない。
 きれいな歌を、上手な歌を、楽しい歌だけを求めている人にしてみれば、ぼくの歌など用なしだろう。どんな歌をいいと思うのかは人それぞれだから、その人の好みや価値観と相容れなかったりするのは、どうしようもないことだ。
 でもぼくの歌を全然知らずにライブに来てくれて、初めて聞いて、「いいな、また来よう」と思う人が一人でもいてくれたとしたら、歌う者にとってこんなに嬉しいことはない。そしてそこからライブに来る人の数がきっと増えて行く。
 動員を増やすためにいろいろと戦略を考えたり、手当り次第に声をかけるよりも、最も地道に思えるこのことこそが、ライブに来てくれる人を増やすための「正道」なのだとぼくは考えている。
 キッチン・ハリーナでのライブはとても楽しく、大いに盛り上がった。またぼくのライブに来てくれる人がきっといると、ぼくは信じたい。

 こずみっくでのまっちゃんライブにも、10人ほどのお客さんが聞きに来てくれた。こちらは毎年同じ人がライブに来てくれる。これはとても嬉しく、ありがたい。これからもずっと来てもらえるようにと、ぼくは毎回精一杯歌う。それに去年と同じことをしてはいけない、去年と違う新しい歌を聞いてもらいたいとも強く思う。
 初めて聞いてもらう人たちの前でベストの演奏をしたいと思うのと同じように、いつも聞いてくれる人たちの前でもベストの演奏をしたいと思う。また違った意気込みや緊張感を抱くことになる。要は、どんなライブであれ、すべてのライブでベストの演奏をしたいということだ。あたりまえといえば、あまりにもあたりまえの話なのだが…。

 今年のこずみっくもとても楽しい夜になった。いつも来てくれる人に初めて聞いてもらう歌も何曲か歌えた。後半は丸岡マルコ淳二さんと一緒に何曲も演奏できた。こずみっくのゴンさんと愛ちゃんにも喜んでもらえたと思う。お二人からは「また来年も来てや」という嬉しい言葉をもらった。

 ライブが終わって、まっちゃんを中心にまっちゃんライブの常連の人たちと一緒に、垂水にあるレトロな雰囲気の民家居酒屋ウタマロセヴンに飲みに行った。
「いつもフォークがかかっているお店やで」と、まっちゃんが教えてくれる。まっちゃんのボトルもキープされている。
 確かにお店にはフォークが流れていたが、フォークはフォークでもニュー・ミュージックと呼ばれるようなお洒落できれいな歌ばかり。まっちゃんがお店の人に「もっとマイナーなフォークは聞かれへんのん?」と尋ねると、しばらくしていきなりぼくの「主婦のブルース」がかかってびっくり。
「この歌歌ってるのんこの人やで」と、まっちゃんがお店の若い人に告げる。もちろん当時のフォークなどまったく知らない世代だろう。
 そういえばこの日の朝、ぼくは泊めてもらった京都のキッチン・ハリーナの二階で、「主婦のブルース」のニュー・バージョン、「主婦のブルース2010」を完成させたばかりだった。もちろん来年のまっちゃんライブでは、それをぜひ聞いてもらおう。
 でもその前にこの夏のツアーから、「主婦のブルース2010」をどのライブでも歌って、自分の中にどんどん入れて行くようにしよう。
 

世界に繋がるリバー・フォーク・フェスティバル 後編 2010年07月16日(金)

 第二回隅田川フォーク・フェスティバルで、ぼくの出番の後は村上律さん(ぼくと同じくすでにかなり飲んでいたみたい)。律ちゃんの後半では古屋さんや館野さん、それにぼくも乱入してみんなで賑やかに演奏し、フェスティバルの最後は、6人編成のバロンなかざわ&世界一周楽団が、しあわせを呼び込む音楽で、明るく楽しく、そして若々しく華やかに締めくくってくれた。
 コンサート本編の後は、60年代のフォーク・コンサートでは恒例だったシング・アウト。みんなが知っている歌をみんなで歌うもので、これこそ自然に楽しくやらなければ、すごく気持悪い感じになってしまう。わざとらしい感じでシング・アウトをやれば、すぐにも60年代フォークの亡霊が顔を出してくる。
 しかしこの日のシング・アウトは、お仕着せがましくなったり、わざとらしくなったりすることなく、みんなで一緒に、楽しく自然に、「グッドナイト・アイリーン」や藤村直樹さんの「君こそは友」、そしてピート・シーガーの「虹の民」を歌えたと思う。
 ぼくが60年代のシング・アウトが苦手だったのは、歌唱指導が行き過ぎてしつこくなったり、声を揃えることにかまけたり、はたまた団結力を高めようといった妙な思惑がくっついたりして、何とも不自然なものになりがちだったからだ。何事も自然がいちばん。歌いたい人が自然に口ずさみ、歌いたくない人は別に声を出さなくてもいい、そんなゆるやかなシング・アウトがぼくは好きだ。

 かくして第二回隅田川フォーク・フェスティバルは、開演からほぼ4時間後の夕方5時過ぎに閉幕となった。エアコンもない神社の本殿でのとても暑いコンサートとなったが、聞く方も歌う方もその暑さにもめげることなく、とても楽しい時間を過ごせたのではないだろうか。
 フェスティバルの成功、不成功といえば、すぐにどれだけ人が集まったかとか、どれだけ規模が大きかったかということで語られがちだ。そういう観点からすれば、告知や前宣伝をあれだけ熱心にやっても、人が100人も集まらなかった第二回隅田川フォーク・フェスティバルは、取るに足らないものになってしまうかもしれない。しかし実際問題として、江島杉山神社の本殿に人が100人も入れば、とんでもないことになってしまう。主催者のマスダさんや国崎さんは、6、70人の人がくれば成功だと考えていたに違いない。

 もちろんぼくもフェスティバルの価値を規模の大きさや参加者の多さで量ったりは決してしない。もちろんそういう「量」で、何ごとも決めつけたがる人がたくさんいることはわかっている。世の中のほとんどのものごとはそういう物差しで量られている。大きければいい、数が多ければいいのだ。しかし問題は、やっぱり中身だ。
 参加者が数十人でも、出演者に誰にでもよく知られている人がほとんどいなかったにしても、ぼくは隅田川フォーク・フェスティバルは、2010年の今の日本のフォーク・ソングの姿を、鮮やかに切り取り、明確に伝える、素晴らしいフォーク・フェスティバルになっていたと思う。
 過去の栄光にすがる人は誰もなく、青春時代の名曲を懐かしく歌う人は誰もなく、今歌はどうあるべきかを考え、後ろではなく、前を向いて進められるフォーク・フェスティバル。規模はとんでもなく小さくても、ここに日本最高のフォーク・フェスティバルがあるとぼくは思った。

 それはひとえに主催者のマスダ昭哲さんが、マスコミや音楽業界が騒ぎ立てる情報などまったく相手にせず、自分の足で東京中の小さなお店を歩き回り、時には日本各地にも足を伸ばして、自分の目と耳で、すなわち頭と心で、今の時代の歌を歌っている「フォーク・シンガー」たちを見つけ出し、そういう人たちを集めてフォーク・フェスティバルをやれば、また何か新しい動きが始まると、ポジティブに考えたからこそだろう。
 すでにあるものを追いかけるのではなく、あるいはかつて人気のあった昔のフォークを振り返るのではなく、これからのフォークの未来をひらくために、それこそ「隗より始めよ」の精神でマスダさんが始めたフォーク・フェスティバル。それが隅田川フォーク・フェスティバルだとぼくは思う。
 そしてマスダさんと同じ思いを抱くフォーク・ファンやさまざまなライブを企画している人たちが日本中から、大阪や犬山、津や亀有から集まり、ボランティア・スタッフとしてフェスティバルの運営に関わってくれた。規模は小さくても(しつこい)、何てすごいフォーク・フェスティバルだ。みんなの力で作ったフォーク・フェスティバルだから、出演者も自分の出番の時だけ来て、終わったら帰るような人は一人もいなかったし、誰もがお互いの歌や演奏に熱心に耳を傾けていた。

 だからフェスティバルが終わってからの両国フォークロア・センターでの打ち上げで(これも歌こそ出なかったが、笑いあり、涙あり、酔っ払いの大声ありの素晴らしいものだった)、ひとりずつ自己紹介して感想を述べて行った時、ぼくは「隅田川フォーク・フェスティバルは日本のニューポート・フォーク・フェスティバルになる」と、思わず言ってしまったのだ。
 アメリカで半世紀以上続き、今やフォーク・フェスティバルの代名詞となってしまっているニューポート・フォーク・フェスティバルもまた、始まりは小さな規模で、まさに「隗より始めよ」の精神でスタートしたはずで、それは想像するに難くない。それと同じ思いを抱くフォーク・フェスティバル、それが隅田川フォーク・フェスティバルのようにぼくは思えてならない。
 もちろん隅田川フォーク・フェスティバルは、ニューボート・フォーク・フェスティバルのように大きくなる必要もなければ、有名になる必要もない(なってもいいが)。隗より始めて、このまま一回一回着実に続けて行ってほしい。
 来年の三回目もぜひ参加させてください。お願いだから、もうシークレット・ゲストにはしないでね。

 隅田川フォーク・フェスティバルについては、主催者のマスダ昭哲さんが、どうしてやろうとしたのか、どう考えていたのか、やってみてどうだったかなど、ご自身のブログ『本の人生 本との人生 末端古本屋雑記帳』 http://masdart.exblog.jp/ で、とても詳しく書かれている。読みごたえのある素晴らしい内容なので、ぜひともこのサイトを訪ねて、読んでみてください。

世界に繋がるリバー・フォーク・フェスティバル 中編 2010年07月16日(金)

 第二回隅田川フォーク・フェスティバルの開演は午後1時ちょうど。主催者代表のマスダ昭哲さんの挨拶というか開会宣言の後、女性三人組のジャグバンド、ハニーバイキングでコンサートが始まり、放浪のシンガー,太田三造さん、6月25日の京都での藤村直樹さんを偲ぶ会でも一緒だったオートハープを弾いて歌う古屋克己さん(藤村さんを通じてオートハープ奏者の木崎豊さんと知り合い、この楽器を弾き始めた人だ)、バイオリンとミニ・ギターでスコティッシュ・ケルト・ミュージックを演奏する男女二人組の犬猫座、そして語り歌という独自のスタイルを確立している館野公一さんと、それぞれが20分前後の持ち時間で、次々と歌や演奏が引き継がれて行く。演奏の合間にはマスダさんが登場して、簡単に演奏者の紹介をしてくれる。

 館野さんの後の、楽四季一生(たのしきかずお)さんとその次の岡大介さんに共通するキーワードは、明治・大正の民権演歌師、添田唖蝉坊。最後の演歌師と呼ばれた桜井敏雄さんに指導を受けた楽四季さんは、バイオリンを弾きながら、当時歌われていたのと同じスタイルで、唖然坊などの歌を再現し、岡さんはカンカラ三線を爪弾きながら、唖然坊の歌を自己流に歌う。
 1960年代後半に日本でフォーク・ソングが広がりを見せた時も、多くの歌い手たちがウディ・ガスリーやピート・シーガーに学びながら、同時に日本にもそれ以前にすごい「フォーク・シンガー」がいたことに気づき、ギターで唖然坊を歌っていたことを思い出す。
 とりわけ熱心だったのが高田渡さんで、彼はもとのメロディのままそれらの曲を歌わず、唖然坊の歌詞をウディ・ガスリーやアメリカの古いフォーク・ソングのメロディと結びつけて歌うという、とても奇抜で斬新なことを見事にやってのけ、みんなを驚かせたのだ。
 アメリカのフォークの物真似やコピーではなく、日本語で自分たちのフォーク・ソングを歌おうと志していた者たちにとっては、あの頃、ウディ・ガスリーやピート・シーガーのレコードが必聴盤だったように、岩波新書で出ていた添田知道さんの『演歌の明治大正史』も必読書となっていた。
  楽四季さんや岡さんの歌う添田唖蝉坊などの演歌を聞いていると、それらの歌が100年近くも前の過去の遺物のようにはまったく思えず、今の時代に通用するというか、むしろ今の時代にこそぴったりで、強く心を引きつけられ、いろんなことを考えさせられる。
 それだけ大きな力を持った歌だということだし、楽四季さんも岡さんも、明治,大正の演歌を過去の文化や風俗の紹介としてではなく、今に通じる現在形の音楽として、それこそ未来に向けて歌っているからこそだと思う。

 岡大介さんの演奏の後はしばらく休憩となり、後半は役者として活躍する外山誠二さんのソロ・ギターに始まり、続いて5月末の西荻窪のみ亭でのハニーバイキングとぼくとのジョイント・ライブを見に来てくれていた、西荻窪在住のアメリカ人のリチャードさんが5弦バンジョーを抱えて飛び入り。見事なフレイリング奏法で、「Cuckoo」の弾き語りを披露してくれた。
 そして聞き手の笑いを誘わずにはおかない歌を得意とする男性二人組のホワイト&ぶるー、またまた飛び入りでバイオリン弾き語りのみほこんと続き、いよいよぼくの出番。
 持ち時間が20分なので、ぼくはギター・バンジョーで「一台のリヤカーが立ち向かう」、12弦ギターで「豊かな恵みの使い道」を歌い、最後に村上律さんやみほこん、外山誠二さんや館野公一さん、それにバロンなかざわと世界一周楽団のドラムスの熊谷太輔さんなどに参加してもらい、みんなで「ビッグ・スカイ」を歌った。
 まさか畳敷きの神社の本殿では暴れまくらないだろうとみんな思っていたみたいだが、あまりの楽しさにぼくはスライディングし、最後は小さな机の上に跳び乗って(神聖なものだったらどうしよう)ジャンプまでしてしまった。神様、ごめんなさい。
「ビッグ・スカイ」で引っ込もうとしたら、嬉しいことにマスダさんが「もう一曲やってもいいですよ」と言ってくれ、それで「ビッグ・スカイ」とほとんど同じメンバーで、「ミー・アンド・ボビー・マギー」も歌わせてもらった。すごく楽しい。
(つづく)

世界に繋がるリバー・フォーク・フェスティバル 前編 2010年07月16日(金)

 もう二週間が過ぎてしまったが、7月3日の隅田川フォーク・フェスティバルのことを書こう。この素晴らしいフェスティバルのことは、どうしても書いておきたい。

 今年で二回目となる隅田川フォーク・フェスティバル。去年の第一回目の時は、そういうフェスティバルがあるということは耳にしていたものの、その日は恐らく自分のライブの日と重なってしまっていたのだろう、残念なことに参加して歌うこともできなければ、見に行くこともできなかった。
 いや、もっと直接的な理由として、フェスティバルを中心になって仕切っている、ネット古書店のマスダ昭哲さんや両国フォークロア・センターの国崎清秀さんと、去年の夏の段階では、あまりコンタクトをとっていなかったということが言える。
 もちろんお二人とも古くからのぼくの知り合いだが、マスダさんとは、去年の秋から冬にかけて、池袋の豊島区民センターや新宿ゴールデン街劇場で行われた、オフノートの神谷一義さんが主催したフォークのイベントを通じて、急接近するようになった。そして今度はそのマスダさんが、今年の一月に両国フォークロア・センターでフォーク・ソングのワークショップを企画してくれた。
 両国フォークロア・センターには1970年代の後半にぼくはよく歌いに行っていたが、マスダさんのおかげで、それこそ三十数年ぶりにまたそこで歌うことができたのだ。国崎さんとは、いろんな別の場所でたまにお会いしたりしていたが、外の場所ではいつもばたばたしていて、あまり落ち着いて話をすることができなかった。しかし国崎さんの本拠地のフォークロア・センターでは、久しぶりに二人でじっくりといろんな話をすることができた。

 そんな中、マスダさんと国崎さんの両方から、隅田川フォーク・フェスティバルを始めたことを聞かされ、今年の夏も第二回目をやると教えてもらった。その時ぼくは即座に自分もぜひ参加したいと表明したはずなのだが、第二回目の全容が徐々に明らかになると、参加者の中にぼくの名前は入っていなかった。そこで諦めることなく、めげることなく、マスダさんにラブコールし続けると、飛び入りというか、スペシャル・ゲストというか、シークレット・ゲストのようなかたちで、めでたくぼくも参加できることになった。万歳。

 しかしフォーク・フェスティバルが近づき、チラシなどが完成しても、ぼくはまだずっとシークレット・ゲスト扱いのままだった。ぼくなんか、秘密にして、当日予告なしに登場したとしても、何のサプライズにもならないというのに…。
 第二回隅田川フォーク・フェスティバルのちらしは、マスダさんの親しい友だちで、映画ライターとしても有名な三留まゆみさんが、出演者全員の似顔絵を描いた素晴らしいものだった。しかしシークレット・ゲスト扱いのぼくは、シークレットなので似顔絵を描いてもらえず、顔はシルエットのままだった。ぼくだけ顔がないなんて、あまりにも悲しいではないか。
 そこでマスダさんに、ぼくも三留さんにぜひ似顔絵を描いてほしいと、泣きながらお願いした(それはちょっと大袈裟で、実際はメールしただけなのだが…)。すると嬉しいことに、フェスティバル当日、三留さんが描いたチラシの絵が表紙になった4ページのプログラムが販売され、やはり同じチラシの絵がプリントされたTシャツも販売されたが、そこではシルエットになっていたぼくの顔が、みんなと同じ似顔絵になっていて、中川五郎と名前もちゃんと入れられていた。万歳。
 しかしTシャツのプリントはあまりうまくいかなかったようで、当日会場で飛ぶように売れるというわけにはいかず、フェスティバルが終わった頃には、値段もまるで叩き売りの状態になっていた。

 肝心の隅田川フォーク・フェスティバルそのものの話に戻ろう。今年も会場は第一回目と同じく、両国フォークロア・センターの向かいにある江島杉山神社。そこの本殿がコンサート会場となり、鳥居をくぐってお賽銭箱から本殿へと続く石畳の上にはビニール・シートが敷かれ、その両側ではさまざまなものが販売されていた。
 缶ビールや缶チューハイ、発泡酒やソフト・ドリンクといった飲み物各種、くじ引きの駄菓子(あまり評判がよくなくてほとんど売れず、打ち上げの時にみんなで食べ放題となった)、フェスティバルの記念Tシャツ(最後は叩き売り!)、そして参加者のCD各種。
 本殿へと上がる階段のところでは、両国フォークロア・センターの近くにあるマンション内古本屋さんの眺花亭が、古本の出張販売をしていた。

 それにしても神聖な場所である神社が、外国のフォーク・ソングに影響を受けた音楽のフェスティバルのために、神社の大部分を開放してくれるというのは、何とも素晴らしいことだ。江島杉山神社の宮司さんは女性ということだが、宮司さんや神社の関係者が、フェスティバルが行われている間、変なふうに使われていないか、大騒ぎしていないか,羽目を外しているのではないかと、心配して顔を出すということは、まったくなかったように思う。きっと主催者を信頼しきっていたのだろう。
 みんなが本殿の周辺でお酒を飲んでいても、お咎めなしだった。もっとも、いちばんよく飲んでいたのはぼくみたいだったので、何かあっても酔っ払っていて気づかなかっただけの話かもしれない。
 でもこんなふうに神社が開放的なのは、地域の人たちとの関係がとてもよくて、お互いに信頼し合っているからこそだと改めて思う。両国フォークロア・センターの国崎さんも、自分のセンターの目の前にあるこの神社とは、とても長い付き合いで、うんと深く繋がっているのだろう。

 しかも江島杉山神社は、江ノ島弁財天と鍼術の杉山和一総検校がまつられている神社で、人頭蛇尾の宇賀神さまは音楽や芸能、学問の神様だ。神社の横には岩屋もある。まさに日本のミューズがまつられている神社と言え,おかげでフェスティバルは大成功だった。誰もが音楽の神様に音楽を奉納したというわけだ。
(つづく)

No Contort 2010年06月28日(月)

 6月26日の土曜日の夜は、川辺ゆかさん企画、プロデュースのぼくとのジョイント・ライブ「きかせて、ごろうさん FOLK♪SONG」の二日目で、会場は心斎橋の素敵なバー&レコード・ショップの「CONTORT/コントート」。

 日本,チベット、東地中海、アイルランドなどの民謡を歌い、日本やオランダなどで演奏活動を行っている「人や土地を思い訪ねる、うた旅行家」の川辺ゆかさんの存在は、親しい画家でテラコッタ陶芸家の南椌椌さんからよく聞かされていた。初めてゆかさんにお会いしたのは、去年の12月も押し迫った頃、下北沢で開かれたチベット民主化の集いでのことだった。
 その後ゆかさんは、4月中旬にあったぼくの京都の円町や大阪府枚方市でのライブを聞きに来てくれ、枚方市牧野のbar moonshineの時は、チベットの民族楽器のダムニェンを弾きながら何曲か歌を聞かせてくれた。

 今回6月25日に京都の拾得で開かれる藤村直樹さんの追悼の集いに参加することになり、せっかく京都に行くのだから、その前後に関西のどこかでライブができないだろうかと神戸在住のゆかさんに相談してみたところ、彼女はいろいろと動き回ってくれ、24日の京都錦市場の「晴〜hale〜」、26日の大阪心斎橋の「CONTORT/コントート」と、二か所でのライブを決めてくれた。とても感謝している。ありがとうございます。

「晴〜hale〜」の日はダムニェンを弾きながらひとりで歌った川辺ゆかさんだったが、雨の日になった「CONTORT」では、彼女の親しい音楽仲間のアポ・ギュルベヤズ(Abdurrahman Gulbeyaz)さんが、サズというトルコの弦楽器やさまざまな打楽器を持って来て、ゆかさんの歌に伴奏をつけた。
 この日はアポさんの友だちのトルコ語を勉強している森内さんも一緒にやって来て、彼もさまざまな打楽器でゆかさんの歌に加わる。ゆかさんは1、2曲だけ、三線を弾いて歌った。

 アポさんはトルコの南東部、地中海沿岸のイスケンデルン出身のミュージシャンにして言語学と音楽学の学者で、ゆかさんがアポさんたちと一緒にやる時は、当然彼女のレパートリーは東地中海地方の伝統曲が中心となるが、この夜はほかにもヨーロッパ各地の歌や日本民謡も聞かせてくれた。
 どの地方の歌を歌っても、ゆかさんはそれぞれの歌の心を汲み取り、見事な現地語で歌う。単に歌を学んで歌うのではなく、その土地のことやその歴史、そこで生きる人たちのことまでをも踏まえて歌っているので、深い思いがしっかり伝わって来る。単なる言葉遊びだけのような歌でも、その土地の風景や人々の顔が浮かび上がってくる。

 7時半過ぎの開演時間から、ゆかさんがアポさんや森内さんと一緒に一時間ほど演奏し、それからぼくの番となる。パーカッショニストが二人もいるということになれば、一緒にやらないわけがない。アポさんと森内さんに「一緒にやってください」と頼み込み、ぼくが歌うすべての曲に、ぶっつけ本番で、二人にいろんな打楽器を叩いてもらった。
「ミー・アンド・ボビー・マギー」や「90センチ」、「ビッグ・スカイ」など、リズムのはっきりした曲では、二人もとても叩きやすそうで大乗りだったが、「丸々赤ちゃん」や「言わなくていいよ」のように、ぼくがギター・バンジョーをフィンガー・ピッキングで弾きながら歌う曲でも、二人は工夫して素敵なパーカッションの伴奏をしてくれた。
 曲によって、二人は持って来ていた5、6個の打楽器を取っ替え引っ替えしながら叩いてくれたのだが、最後の方で森内さんがすべて叩ききってしまったのか、声を出しながら口の前で両手を叩く「口パーカッション」までやってくれたのは、嬉しい驚きだった。

「晴〜hale〜」の日は、久しぶりのライブということもあって、妙に堅く生真面目なものになってしまったが、「CONTORT」の雨の夜は、アポさんと森内さんの二人のパーカッションにも煽られて、ぼくは元気いっぱい。
 ライブ前に朝から京都で飲んだワイン、「CONTORT」に着いてから飲んだ生ビールやワイン、それにライブを見に来てくれた古くからの大阪の友人,堰やんこと堰守さんにごちそうしてもらったハイボールの酔いにも助けられ、とても楽しく、熱く歌うことができた。
 調子に乗って、最後にはジャンプや「跪き起き上がり」(その名のとおり跪いて頭を後ろにそらし、頭を床に付けてから起き上がるというもの)にも挑戦した。しかしジャンプをするために飛び乗った椅子の上には、ぼくのギター・バンジョーが置かれていて、それを落とさないよう気にしたため、とても中途半端なジャンプになってしまった。

 嬉しいことにアンコールをいただいたので、「豊かな恵みの使い道」を歌う。人前で歌うのは、四度目になる。この夜も一か所歌詞がすぐに出て来ず、途中でやり直してしまったが、何度も人前で歌うことで、徐々にこの歌が自分の身に付いて来ているように思う。

 終わってからは「CONTORT」で、久しぶりの再会となった堰やん(かつて1970年代に春一番のスタッフだった堰やんは、この夜のライブの前半、P.A.の調子が悪くてハウリングばかり起こしている時、いろいろとお店の人にアドバイスしたり、ぼくのマイク・スタンドの高さを調節してくれたり、はたまたハイボールをご馳走してくれたりと、七面六費の大活躍をしてくれた)としばらく一緒に飲んで話をした。ほかのお客さんたちともいろいろと話をし、持って行った数枚のぼくのCDは完売、来年1月の大和郡山での新たな出演の話も決まると、ほんとうに嬉しいかぎり。
 京都に旅立つ前、「大阪のライブの予約が少なくて心配」とゆかさんから連絡をもらい、ぼくもとても不安だったが、いざ当日になってみると、大雨の天気にもかかわらず「CONTORT」は、ゆかさんのファンを中心にほぼ満員の入りになって、これまたほんとうに嬉しいかぎりだった。

 アポさんや森内さんは一足先に、「CONTORT」のすぐそばにあるトルコのカフェ+水たばこ+音楽+mini shopの「SAZ CAFE」に行っていて、遅れてゆかさんとぼくが駆けつけると、次から次へと大阪で仕事をしているトルコの人たちが集まり始める。このお店をやっているセファ・シムシェイク(Sefa Simsek)さんは、サズやウード、ジル(ザガット)の名手でもある。「SAZ CAFE」には、おいしいトルコの赤ワインやビールもたっぷりとある。もちろんおいしいトルコ料理も。

 そんな素敵なトルコ・カフェにみんなで集まれば、宴になるのは必然で、アポさんやセファさんがサズを弾き、森内さんが打楽器を叩き、ゆかさんが歌う。もちろんぼくもライブが終わって一度ゆるめたギターの弦を張り直し、「25年目のおっぱい」や「90センチ」を歌った。集まったトルコの男性たちは、とても嬉しそうに、楽しそうに聞いてくれる。おっぱいやキスへの憧れは、やはり万国共通なのだ。

 この日は朝から飲み続けで、「CONTORT」のライブも飲みながら大はしゃぎ。「SAZ CAFE」でも調子に乗っておいしい赤ワインをぐびぐび飲んだので、思わずぼくはこっくりこっくりしてしまった。
 時間はすでに午前一時過ぎ。大雨の中、ギターとギター・バンジョー、キャリー・バッグ、パソコンの入ったバックパックなどを抱え、傘もさせない状態で電車を乗り継ぎ、心斎橋から香里園の実家に戻るのは絶対に無理だと、終電に間に合うよう帰ることは、もうとっくにあきらめていた。
 こっくりこっくりしているぼくに気づき、セファさんが「ここで寝たらいいよ」と、お店の隅にマットを敷いてくれる。まるでミシシッピ・ジョン・ハートの歌で有名なアメリカの古いブルース「Make me a pallet on the floor」のようだ。
 優しくて、とてもよく気がつくセファさん。トルコの男たちは、顔がいかつかったり、眉がとても濃かったり、からだがごつかったりするけど、みんな優しくて、フレンドリーで、とても親切で、あたたかい。

 差し出されたマットで、ぼくはありがたく寝ようと思ったが、ライブにぴったりの場所があるとゆかさんに「CONTORT」を紹介した、彼女の親友の部屋が近くにあり、ちょうど彼女が留守にしていて、そこで泊れることになった。
 かくして「CONTORT」の夜は、いろんな人たちの親切に助けられ、困り果てて顔を歪めることもなく(contortは、ねじ曲げる、歪めるという意味だ)、ぼくは大雨の中、路頭に迷わずに済んだのであった。

ありがとう。君こそは友 2010年06月27日(日)

 6月25日は京都拾得で、藤村直樹さん追悼の集い「君こそは友」に参加した。4月27日午前9時18分、62歳で亡くなった藤村直樹さんとは、40年以上前、1960年代後半からの知り合いで、ぼくにとってとても親しいフォーク仲間だった。

 60年代後半、日本でフォーク・ソングが広がりを見せ始めた頃、藤村さんは各地で歌っていた人たちが大阪に集まってきて結成された、バンドやグループというよりは、個人の集合体のようなフォーク・キャンパーズに参加したり、通っていた大学のあった和歌山でフォーク村を作ったりして、積極的な活動をしていた。
 当時藤村さんははたち前後で、彼の二つ年下のぼくもその頃人前で歌い始めていたので、いろんな場面で顔を合わせていた。

 その後藤村さんはほかの学生よりもたっぷりと丁寧に時間をかけて医科大学を卒業し、医者の道に進んだ。医者になってからしばらくは、音楽活動もままならないようだったが、彼の心から音楽が離れたことは一度もなかった。
 そしてここ10年以上は、ずっと住み続けていた京都でまたさかんに歌い始め、新しいCDも発表するようになった。そして藤村さんはフォーク・シンガーとして活躍するだけでなく、京都のさまざまな場所でさまざまな企画を立て、面白い組み合わせを考えたり、それまで交流のなかった歌い手同士を結びつけたりして画期的なライブを行う、オーガナイザーとして重要な役割を果たすようになった。
 このぼくも藤村さんに呼んでもらって、京都で何度も面白いライブをすることができた。藤村さん企画のライブは、いつもお客さんがいっぱいだった。

 何年も前から藤村さんは病気になり、体調も万全でなくなったが、それでも歌い続け、さまざまな歌の場のオーガナイズもし続け、いつでも酒を飲み続けた。
 ぼくが藤村さんに会うと、いつでも赤ワインのボトルのコルクが抜かれ、酒宴は夜遅くまで続き、彼の部屋に泊めてもらい、翌朝会うと、またしても新しいワインのボトルのコルクが抜かれた。そしてその日の予定が何もなかったりすると、二日目の酒宴も夜遅くまで続いた。

 しかし今年になって藤村さんは、自分が歌うのも、いろんな歌い手のライブをプロデュースしたり、オーガナイズするのも、厳しくなってきたと判断し、3月20日と21日の二日間、京都の拾得で「藤村直樹中休みライブ」と銘打って、自分の音楽活動に区切りをつけるライブを行った。
 20日は前夜祭ということで、藤村さんと親交の合った20組以上のシンガーやミュージシャンたちが集まり、21日は藤村直樹さんと高石ともやさんのまったく二人だけでのジョイント・ライブだった。

 ぼくは20日の前夜祭に参加し、その日のライブをすべて見て、21日は中津川に歌いに行かなければならなかったので、直接見ることはできなかったが、後でその日のライブを撮影したDVDを見せてもらった。
 藤村さんは両日とも渾身の力を込めて歌い、演奏し、とりわけ21日のひとりでの演奏の時の、魂の込め方は鬼気迫るものがあった。今にして思えば、藤村さんは「中休みライブ」と宣言しながら、そして実際そうなればいいな、休みが終わってまた歌えるようになればいいなと思いつつ、心の奥でこれは自分のラスト・ライブになるに違いないと覚悟していたのだろう。

 藤村さんは二日間のライブで全精力を使い果たしたようで、終わってから何度か電話で話をしても、疲れきっている様子がありありと伝わって来た。だからぼくは自分からあまり電話をかけないようにしたし、中休みライブの後、4月の初めや中頃に京都に歌いに行った時も、会いに行ったりはしなかった。
 しばらく休養したら藤村さんは、また元気を取り戻し、歌うことはないにしても、会って話をしたり、一緒に飲んだりできると思っていたからだ。彼の体調が悪いのはわかっていたが、まだ当分の間、神様はクリスチャンの彼を天国にさらっていかないだろうと信じていた。

 しかし中休みライブからひと月ちょっと後の4月27日、悲報が飛び込んで来た。医者の藤村さん自身も、自分はまだ大丈夫だと思っていたのだろう。医者の仕事にも復帰し、毎晩馴染みのお店にも飲みに行き、前日の26日の夜も近所の行きつけの店に顔を出し、お酒を飲んで家に帰って来た。そしてそこで倒れ、そのまま意識が戻ることはなかった。

 3月20日と21日の拾得での「藤村直樹中休みライブ」の時は、藤村さんのいちばん新しいCDアルバム『君こそは友』がちょうど出来上がって来た日だった。藤村さんが作った「君こそは友」という同じ曲を、十数組のミュージシャンたちが、それぞれ自分たちの解釈やアレンジで歌っている実にユニークなアルバムだ。
 そしてその中休みライブの日の夜、「CD発売記念の本格的なライブをやろう」ということになり、拾得のテリーさんにスケジュールを尋ね、6月25日の金曜日が空いていたので、その日に藤村さんも来て「『君こそは友』発売記念のライブをすることに決めたのだ。

 しかし「『君こそは友』発売記念ライブ」は、無念なことに「藤村直樹追悼の集い」となってしまった。そして下野松美さん、勝木徹芳さん、長野隆さん、北村謙さん、桝井耕一郎さん、そしてぼくの六人が世話人となって、内容や参加者など、さまざまなことを決めていくことになった。しかしぼくだけが東京の人間で、何度か開かれたミーティングに参加することもできず、名前だけの世話人になってしまったことがほんとうに心苦しい。

 拾得のステージの奥の壁の上高くには藤村直樹さんの遺影が飾られ、天からステージを見下ろしているかのようだ。藤村さんが愛用していたギターも何台も掛けられている。
 追悼の集いは午後6時に始まり、北村謙さんの司会で粛々と進められていく。最初に追悼セレモニーがあって、まず北村謙さんが挨拶をし、それからバラーズの福中いづみさんがソロで「Amazing Grace」を歌う。これは生前藤村さんが、「おつる(福中さんの愛称)、ぼくが死んだらソロで『Amazing Grace』を歌ってね」と福中さんに伝えていたからで、その約束が守られることになった。それから勝木徹芳さんが藤村さんの生い立ちを紹介し、ぼくが献杯の音頭をとり、そこで追悼セレモニーは終了。

 続いて仲間たちからの献歌の式となり、一番手の和歌山フォーク村の笹木誠次さんたちから最後の高石ともやさんまで、全部で15組以上のミュージシャンたちやグループが、基本的には一組一曲ずつ、藤村さんに歌を捧げた。
 この献歌の式も北村謙さんが司会を務め、途中には謙さんの司会で、藤村さんのお姉さんの延子さん、勝木徹芳さん、豊田勇造さん、ぼくの四人が、藤村さんとの思い出を語るというコーナーもあった。

 この夜の藤村直樹さん追悼の集いで、いちばん活躍し、いちばん尽力し、いちばん貢献したのは、司会を務めた北村謙さんだろう。藤村さんととても親しかったバンジョーマン、謙さんの名司会は、ユーモラスで軽妙でお笑いのセンスにも満ちながら、藤村さんへの愛情とリスペクトに溢れたもので、謙さんの語りが、この夜の追悼の集いを、とてもあたたかく、優しく、切なく,そして楽しいものにさえしていたようにぼくは思う。謙さんはとても大切な役割を見事に果してくれたのだ。

 仲間たちからの献歌の式が始まり、ぼくはステージを見ようと、拾得のいちばん後ろのカウンターの隅に向かう。すると座敷席のいちばん後ろに座っていた高石ともやさんの席に呼ばれ、そこでビールを飲みながら一緒にステージを見ることに。
 高石さんの知り合いや関係者の人が次から次へとビールのお代わりを注文し、注がれたら飲んでしまうぼくのこと、しこたまビールを飲んでしまった。その日は朝、パンをひとつ食べただけというのに…。

 高石ともやさんからはサウンド・チェックの時に、「あなた、今日はギター・バンジョー持って来ていないの?」と声をかけられ、「持って来ていますよ」と返事すると、高石さんの献歌の時にギター・バンジョーで一緒に演奏することになった。
 高石さんがこの夜歌おうとしていたのは、藤村直樹さんの持ち歌の「アメリア・エアハート最後の飛行」と「十字架に帰ろう」の二曲。高石さんは「アメリア・エアハート」ではティン・ウィッスルを吹きながら歌い、「十字架に帰ろう」は、4弦バンジョーを弾きながら歌う。そこに桑田眞人さんがギターで、ぼくがギター・バンジョーで加わる。この三人でサウンド・チェックをした。

 献歌の式では、最後の高石ともやさんの前は、高石ともや&フォーク・キャンパーズ。フォーク・キャンパーズにはかつてぼくも参加していたから、そこからぼくはステージに出て、予定していた「プレイボーイ、プレイガール」を一緒に歌う。
 ところが途中で高石さんが曲を遮り、「そういえばフォーク・キャンパーズでは『かっこよくはないけれど』というのもよく歌っていたね」と言ったかと思うと、「あなた歌える?」と突然ぼくに振って来る。こんな予期せぬ展開が、高石さんはとても得意だ。
 かくしてぼくは急遽キャンパーズのメンバーの勝木徹芳さんからギターを借り、「かっこよくはないけれど」を歌う。突然だったので、二番ぐらいまでしか歌えず、突然だったのでキーもかなり低いままだった。せっかくなら、ちゃんと歌いたかった。

 それから高石さんの献歌となった。一曲目の「アメリア・エアハート」は、サウンド・チェックと同じだったが、その曲を歌い終えると、高石さんは突然ステージの後ろの壁に掛けられていた藤村直樹さんのギター、マーティンD-28を手に取る。そしてマイケル・スミスが作り、スティーヴ・グッドマンが歌っていた「ダッチマン」を日本語にしたものを歌い始める。またしても予期せぬ展開。
 そして「十字架に帰ろう」も、4弦バンジョーではなく、そのままギターで歌ってしまった。そして途中には長い長い語りも入る。またまた予期せぬ展開。

 追悼の集いの最後は、藤村直樹さんの奥さんのみゆきさんが「直樹っちゃん、よかたね」と謝辞を述べ、参加者全員で「君こそは友」を歌ってから、ぼくが閉会の挨拶をすることになった。
 何もできなかった世話人として、今ぼくができるのは、藤村直樹さんへの感謝と尊敬と愛情を最大限込めて、心から挨拶をすることだ。
「藤村さんはいっばい素晴らしいライブを企画してくれました。そしてどのライブも大成功でした。すると藤村さんは、とても得意げに、嬉しそうに、『どうや、すごいだろう』と言うのです。でもほんとうにすごいから、ぼくは何も言えません。藤村さんはいつもほんとうにすごかった」
「今夜はとても素晴らしい追悼の集いになりました。でも素晴らしい集いになるより、こんな集いをしなくて済む方がずっといいです。藤村さんとはもっと一緒にいたかったし、もっと一緒に歌ったり、いろんなことをしたかったです」

 40年以上前からの友人。どこまでも大変お世話になり、そして一緒にとんでもない量のワインを飲んだ愛すべき男、藤村直樹。彼に改めて「ありがとう」とぼくは言う。あなたには心から感謝している。
 この夜の仲間たちからの献歌の式でぼくが歌ったのは、「ビッグ・スカイ」。藤村さんのことを思い、ぼくはこう歌った。
「大空でみんなと出会う/別れた人と再会果たす/積もり積もった話をしよう/ぼくは帰って来た」

晴れ晴れライブ 2010年06月26日(土)

 6月24日は京都の錦市場の中、錦小路通麩屋町西入ル東魚屋町にある「晴〜hale〜」で、川辺ゆかさんとのジョイント・ライブ。6月11日の五反田の「結ま〜る(ゆいまーる)」からずっと歌っていなかったので、ぼくとしては珍しく、二週間ぶりのライブとなった。

 わかっていたことだけど、二週間ぶりに人前で歌うとなると、やはり勘が鈍るというか、調子が休眠してしまっている。それで久しぶりのライブの時は、直前の自主練習が必須なのだが、京都に向かう前の数日間は、父の日があったり、血液検査のために病院に行ったりで、妙にばたばたしてしまい、つい練習を怠ってしまった。
 父の日は娘と孫に会い、病院は禁酒しているぼくを見て、ギタリストの伊東正美さんがいいお医者さんを紹介してくれ、「ちゃんと検査した方がいいよ」と、勧めてくれたのだ。さすが酒飲み仲間は心強い。
 そこで正美さんお薦めの病院に行き、血液検査と尿検査をして診察をしてもらい、とりあえず肝臓も腎臓もだいじょうぶという診断をいただいた。ほっとする。ただ、採血のため静脈に注射されたのだが、少し針の先がぶれたのだろうか、左腕の内側が腫れ、大きく内出血してしまった。ショック。

 お昼過ぎに京都に着いても、7月の京都で一緒にライブをやる西尾汀子さんとのリハーサルを入れてしまい、結局ちゃんと練習ができないまま、ライブ会場の「晴〜hale〜」に向かう。
 案の定、その夜のライブでは、しばらく歌っていなかった「雪よ降れ、ヒンズークシュの山の上に」や作ったばかりで人前で歌うのは三度目となる「豊かな恵みの使い道」の歌詞を間違ったりして、さんざんなことになってしまった。
 最近のライブでは必ず歌っている「一台のリヤカーが立ち向かう」でも、「ウディ・ガスリーはギターのボデイに書いた/このマシーンはファシストを壊滅させると」というところを、「このギターはファシストを打ち砕く」と先に歌ってしまい、あわてて「ウディ・ガスリーはギターのボデイに書いた」と続け、何だかおかしな具合になってしまった。反省。猛省。

 でも集まってくれた十数人のみんなは、静かに、じっくりと聞いてくれ、アンコールももらったので、チベットや日本、東地中海の歌だけでなく、アイルランドの歌も得意とする川辺ゆかさんと一緒に「Down by the Sally Gardens」を歌った。
 最初はゆかさんがぼくのギターに合わせて、原詞で歌い、それから赤べえこと赤木一孝さんが「月の庭」というタイトルで歌っている日本語の歌詞をぼくが歌った。
「月の庭」は、赤べえのパートナーの佐々木由起さんがアイルランド民謡の「Down by the Sally Gardens」のメロディにあわせて、とても美しい歌詞を付けた曲だ。
 短いけれどとんでもなく多くのことを語りかけるこの歌詞にぼくはとても心を動かされ、赤べえがこの歌を歌うのを聞きながら、いつか自分でも歌いたいと思い続けていた。よしだよしこさんも素晴らしいカバーをしている。その歌をこの夜初めて人前で歌ったのだ。

「月の庭」の佐々木由起さんの歌詞があまりにも素敵なので、ここで紹介させてもらおう。

月の庭
詞/佐々木由起 曲/Irish Trad(Down by the Sally Gardens)

古い家の庭に 月の光満ちて
ひそやかに風渡り 眠る花を揺らす
そのままの君でいいと 抱きしめてくれた人よ
幾千の言葉より あの手のぬくもり

名も知らぬ花の色に 心ときめかせ
さしのべた指先に 夜露が光る
あやまちもあらそいも 今はただ懐かしくて
涙の優しさ 教えてくれた人

 川辺ゆかさんは「Down by the Sally Gardens」を英語で歌い慣れているが、ぼくは「月の庭」を人前で歌うのは初めて。まだまだ歌い込んで自分のものにしていないので、ちゃんと歌えなかったが、歌っていると胸がいっぱいになってしまう。特に「幾千の言葉よりあの手のぬくもり」と「あやまちもあらそいも今はただ懐かしくて/涙の優しさ教えてくれた人」のところを歌うとぐっと来てしまう。思い当たるふしがあるからだろう。
「月の庭」は、ちゃんと自分のものにして、これから大切に歌い続けていきたい。

「晴〜hale〜」は、錦市場の奥にある古い二階建ての町家がそのままお店になっているところで、奥には小さな庭もあって、とても素敵。P.A.はなしで、生で歌って演奏したのだが、木造のお座敷の中、ここも下北沢のleteと同じように、声や楽器の音が、とてもあたたかく、いい感じで響く。
 女将さんのコンちゃんこと近藤千晴さんにもとても良くしてもらい、歌詞はいっぱい間違えたが、気持のいいライブをすることができた。ライブ前にいただいたゆば丼も絶品だった。

 ライブが終わってからも、来てくれたみんなが残ってくれ、いろんな話をしているうち、「中川五郎さんって『受験生ブルース』の人ですよね」なんて話になって、気がつくとぼくはギター・バンジョーを手にして、「受験生ブルース」のさわりを高石ともやさんバージョンで歌っていた。
「『主婦のブルース』もそうですよね」とも言われたが、さすがにその歌は40年以上歌っていないので、ちゃんと歌うことはできなかった。
「みなさんわたしの歌を聞いてよ/わたしは平凡な奥さんよ/もうすぐおばあちゃんになってしまう/50をちょっとすぎた奥さんよ」で始まる、18歳の時に書いたこの曲を、ぼく自身が50もとっくに過ぎてしまった今(60だって過ぎてしまったではないか)、歌詞を変えて改めて歌い直したいと思っているのだが、これが実に難しく、なかなかかたちにならない。でもいつか21世紀の「主婦のブルース」をみんなに聞いてもらいたいと思っている。

「晴〜hale〜」でのライブが終わってからは、川辺ゆかさん、モンゴルの歌を歌っている伊藤麻衣子さん、それに「晴〜hale〜」のコンちゃんや加藤祐基さんなど、みんなで一緒に、ぼくの古くからの親友、甲斐扶佐義さんが四条木屋町でやっているお店「八文字屋」に飲みに行く。入って行くと「五郎さんが女の人連れて来たのは初めてやな」と甲斐さんに言われてしまった。

 甲斐さんは前日に二か月に及んだパリ滞在から戻って来たばかり。パリでの写真展は大成功だったようで、いろんな話を聞かされ、よっぽど気に入ったのか、「パリに住むんや。バリに店を出すんや」とまで言っていた。そう、甲斐さんはパリが似合っているかもしれない(いろんな意味で)。
 みんなで甲斐さんのパリ話に耳を傾けながら、ぼくはぐびぐびと焼酎を飲む。パリならワインを飲みたいところだが、あいにくと八文字屋のワインは切れていて,注文してよと言うと、「酒屋に注文するお金がない」と甲斐さんに言われてしまった。
 そこでぼくはお代わりの焼酎のロックを傾け、随分と昔に行ったパリに思いを馳せる。かくして四条木屋町の夜は更けていったのであった。

ライブは試練や勝負や復讐ではない。 2010年06月24日(木)

 6月11日の夜は、五反田の沖縄料理屋さん「結ま〜る(ゆいまーる)」で、パーカッショニストのわきたにじゅんじさんと一緒にライブ。このお店で歌うのは、今年の3月26日に続いて二度目。わきたにさんがこのお店のママと親しく、以前から何度もライブをやっていて、「一度一緒にやってみませんか」と彼に誘われ、3月に初めてやってみた。

 ところが3月26日、初めて「結ま〜る」でわきたにさんと一緒にライブをしたところ、とんでもないことになってしまった。
 というのも、ふつうぼくの考えるライブというのは、その会場が居酒屋であれ、バーであれ、料理屋さんであれ、レストランであれ、その日出演する人が目当てでお客さんが集まってくれ、お店の飲み物や食事を注文して、歌や演奏を楽しむというものだ。どんな会場であれ、ライブがある時は、少なくともその数時間は、そこにいる人たちはライブに集中することになる。
 ところが3月の「結ま〜る」の場合は違っていた。まずはお店の営業があって、みんながお酒を飲みに来たり、沖縄料理を食べに来たりする。そしてそこにたまたまライブが付いているというものだった。
 だから3月の「結ま〜る」のぼくとわきたにさんのライブの時は、飲んだり食べたりしに来たスーツ姿の中高年男性たちの団体客がステージ前のひとつのテーブルに座り、その次のテーブルにも同じように飲んだり食べたりしに来たスーツ姿の中高年男性たちの団体客。いつもぼくのライブを聞きに来てくれる何人かの人たちの席は、いちばん後ろのお座敷だ。

 もちろん団体客の人たちはその夜ライブがあるということをちゃんと知らされていて、チャージを一人1000円取られるということも了解済みだった。でも彼らにしてみれば、ライブといっても、レストランやビアガーデンのステージで演奏されたりするBGMのようなものという認識だったのではないだろうか。

 案の定、ぼくとわきたにさんのライブが始まっても、みんなはまったく耳を傾けてくれない。ボトルで注文した泡盛をグラスに注ぎ合い、おいしい沖縄料理を食べ(「結ま〜る」のお料理はおいしい!!)、大声で自分たちのお喋りに興じている。
 中にはぼくの歌や喋りに反応して、たまにステージに関心を示してくれる人もいるが、頑なまでに絶対にステージを見ようとしない人、まるでライブなんて行われていないと、その存在を完全に無視し続けようとしている人もいる。

 そんな時、その人たちの関心を引き、自分の歌を聞かせてこそプロだと言う人がいる。でもぼくはそうは考えない。もちろんみんなが知っている歌を歌ったり、おかしなことをしたり、軽妙なお喋りをしたりすれば、少しは興味を抱いてくれるかもしれない。でもぼくには誰にでも、何が何でも自分の歌を聞かせたいという気持はない。興味がない人、関心がない人、受けつけない人、心を開かない人には、いくら何をやっても通じることはないのだ。
 余興として、笑いはとれるかもしれない、カラオケのように、誰でも知っている歌を一緒に歌ってくれるかもしれない。でもぼくが自分のライブでやりたいのはそんなことではない。自分の歌を通して自分の思いを伝え、自分のメッセージを伝えたいのだ。

 みんながちゃんと歌を聞きに来てくれる「ふつう」のライブの場でも、ぼくの歌がみんなに受け入れられるわけではない。人はほんとうにそれぞれで、それぞれの受けとめ方がある。ぼくの歌を聞いていいなと思ってくれる人もいれば、まったくだめだと思う人もいる。それは当然のことだ。
 その人たちの心の中に自分の歌を届けることさえ至難の業だというのに、まったく関心のない、ただ飲みに来た人たちの心を開くことなど、少なくともぼくが歌っているような歌では、絶対に無理だと思う。プロのエンタテイナーならそれが要求されるのだろうが、ぼくの歌は娯楽やエンタテインメントとは、かなりかけ離れたものだと自分では思っている。
 歌をまったく聞こうとしない酔客の前で歌うことを「試練」と捉える人もいるだろうが、ぼくはそれが「試練」だとは思わないし、そんな「試練」はまったく必要がないと思う。歌うことは、聞かない人を聞かせてなんぼという、勝ち負けでは決してない。時には歌を殺し、歌い手を殺してしまう「試練」だってあるのだ。

 だから「『結ま〜る』のママから、またライブをやってほしいという話が来ています」と、ぼくのライブをいっぱい企画してくれている「office音符otonofu」の末森英機さんから聞かされた時は、かなりびっくりしてしまった。「わきたにさんもまた一緒にやりたがっていますから」とも、末森さんは付け加える。
 3月のライブが終わった時は、あんな誰も聞いてくれない場所で歌うのはもう二度とごめんだと思ったのだが、末森さんの話を聞いて、もう一度だけやってみようかという気持ちになった。
 あの時はあの時、たまたまあんなふうに飲みに来て、まったく歌を聴いてくれない団体客ばかりになったけど、次もそうなるとはかぎらないではないか。それにあの時も、団体客の中でも、たまにぼくの歌に耳を傾けてくれたり、終わってから興味深げに話しかけてくれた人がいたではないか。それに後ろの座敷では、いつもぼくのライブに来てくれる人たちが、ぼくの歌をじっと聞いてくれていた。

 どんなライブでも、どんなに騒がしいライブでも、飲み客ばかりが騒いでいるように思えるライブでも、歌に耳を傾けてくれる人が一人はいるはずだ。そして最低でも一人がぼくの歌に耳を傾けてくれるなら、ぼくはそこで自分の歌を歌いたい。
 というわけで、ぼくは末森さんに「ぜひまた『結ま〜る』で歌わせてください」と返事した。もちろんそれはリベンジしたい気持からではない。一度やっただけで、「結ま〜る」は、みんなが飲んでうるさくて聞いてくれない店だと決めつけることはない。もう一度やってみれば、また違うかもしれないと思ったからだ。
 それにライブとは、そもそもが勝ち負けではないし、復讐するとかそういう性質のものでもない。敢えて言うなら雪辱といったところかな。

 かくして6月11日の夜、「結ま〜る」での、ぼくとわきたにじゅんじさんとの二度目のライブ。これがやっぱり3月の初体験の時とはまったく違っていた。
 人数こそ前回より少なかったが、来てくれた人はみんなぼくの歌にしっかり耳を傾けてくれ、ぼくもとても気持よく、心を込めて歌え、実に素晴らしいライブになったのだ。
 昔からぼくの歌を聞いてくれていた人もいたし、ぼくのことはよく知らなくても、興味を持ってやって来てくれた人もいた。いろんな曲もリクエストされた。持って行ったCDも、飛ぶように売れ(4枚だけだったが)、久しぶりに完売した。訳したばかり新曲「豊かな恵みの使い道」も、ちゃんと歌うことができた(人前では二度目)。アンコールもきて、「受験生ブルース」を歌った。

「あんな酔っ払いの団体客のうるさい店」と、たった一度の経験、その場の判断で、もう二度とやらないと決めてしまえば、6月11日の「結ま〜る」での楽しいライブは存在しなかったのだ。もう一度やってみてほんとうによかった。
 帰る時、ママからは「またぜひやってくださいね」と声をかけられた。嬉しい。ありがたい。もちろんまたぜひやらせてください。何度でも。
 今度はまた酔っ払いの団体客ばかりで、誰もぼくの歌を聞いてくれなかったとしても、その次がある。同じ場所でのライブでも、ライブは毎回毎回違う。毎回変わる。それこそがライブなのだから。

豊かな恵みの使い道 2010年06月23日(水)

 6月10日は、下北沢のleteでライブ。フランスの田舎にある小さなお家のようなお店で、ギターやギター・バンジョーを弾いて生で歌えば、声や楽器が、とてもいい音で響く。大好きなお店で、何か月かに一度、定期的に歌わせてもらえるようになった。
 ということは、毎回同じような内容でライブをするわけにはいかない。leteでのライブは、新しい曲を歌ったり、滅多に歌わない曲を取り上げて歌ったりする、ぼくにとっての試行の場、新たな挑戦の場にできたらいいなと思う。

 というわけで、早速この夜は、いつものライブではほとんど歌わない歌をいくつか歌うようにした。
 大正時代に活躍した洋画家で詩人でもあり、22歳の若さで夭折した、村山槐多の詩に曲をつけた「どうぞ裸になって下さい」、都月次郎さんのいくつかの詩に曲をつけてひとつの歌にした「風を見る」、茨木のり子さんの詩に吉岡しげ美さんが曲をつけた「生きているもの死んでいるもの」、ピート・シーガーの1968年の作品を日本語にした「ほんものとにせもの/False From True」、ボブ・ディランの1964年の作品を日本語にした「ハッティ・キャロルの寂しい死/The Lonesome Death of Hattie Carroll」などなどだ。

 どの曲も少なくとも一度は人前で歌ったことがあるものばかりだが、この夜leteで初めて歌った曲もあった。それがアメリカのフォーク・シンガーのサイ・カーン(Si Kahn)の作った「What You Do with What You’ve Got」だ。
 もう随分と前、それこそ20年近く前から日本語にして歌いたいと思い続けていた曲だが、いざ挑戦してみてもとても難しく、なかなかうまくいかなかった。それがこの5月の終わり頃になって、またしてもこの曲をどうしても日本語で歌いたくなり、再度トライしてみたところ、今回はすらすらとまではいかないが、とてもいい感じで、日本語の歌にすることができた(相変わらずの字余りソングだが)。

 今年で66歳になるペンシルヴァニア出身のサイ・カーンは、フォーク・シンガーとしてだけでなく、市民運動や労働運動の活動家としてもよく知られている。ぼくが敬愛するピート・シーガーとも親しく、一緒にアルバムを作ったりしている。
「What You Do with What You’ve Got」は、恐らくサイが80年代前半に作ったであろう曲で、1984年に彼が発表したアルバム『Unfinished Portraits』の最後にこの曲を収めている。
 しかしぼくがこの曲を知ったのは、作者のサイ・カーンが歌うオリジナルによってではない。フェアグラウンド・アトラクションのシンガーとして大活躍したスコットランドのエディ・リーダーが、そのバンドを解散し、1992年にソロとしてのデビュー・アルバム『Eddi Reader』を発表した時、そのオープニング・ナンバーに彼女はサイのこの曲を取り上げて、歌っていたのだ。

 エディ・リーダーが歌う「What You Do with What You’ve Got」を聞いて、ぼくはあまりにもの素晴らしさに完全に心を奪われ、何度も繰り返し耳を傾けながら、ああ、いつかこの曲を日本語で歌えたらと思うようになった。
 ひとつの曲に入り込むと、どこまでも追究せずにはいられないぼくのこと、きっかけはエディの歌だったが、もちろんサイ・カーンのオリジナルも手に入れ、スコットランドのフォーク・シンガー、ディック・ゴーハン(Dick Gaughan)のカバーにも耳を傾けた。
 しかしエディのバージョンで「What You Do with What You’ve Got」を知ったぼくにしてみれば、オリジナルのサイ・カーンの歌や、それに忠実なディック・ゴーハンのバージョンは、とてもシンプルなもので、まるで別の歌のように聞こえた。
 それだけエディが見事なアレンジというか、独自のカバーをしたということなのだが、あまりにも淡々としたオリジナルより、ぼくは短調から長調へとドラマチックに展開するエディのバージョンのほうが断然気に入っている。サイ・カーンには悪いが、絶対に原曲を超えている。

 この曲のタイトル「What You Do with What You’ve Got」は、直訳すれば「自分が持っているもので何をするのか」となる。そして立派なからだや賢い頭、地位や名誉や財産を持っていても、持っているだけではまったく意味がなく、それをどう使うのか、どう役立てるのかが大切だと訴える。
 歌詞の後半では、隣人と協力し合う人と棍棒を振り回す人、権力の座に居続ける人と虐げられっぱなしの人、栄光に向かって走る人と足があっても走ろうとしない人と、対極の世界に生きる人たちのことが並べて歌われ、どちらが太陽に手を差し伸べる人で、どちらが「cripple」なのかと問いかけて終わる。

 右か左か、善か悪か、ほんものかにせものか、といったように、何でも完全に二つに分けてしまうやり方は、あまりにも乱暴すぎるとわかっている。現実はいつでも両者が複雑に入り混じったりしているからだ。このことについては、また別の機会にじっくり考えるとして、ぼくが「What You Do with What You’ve Got」を聞いて衝撃を受けたのは、歌詞の中で「cripple」という言葉が、キーワードとして、バーンとぶつけられていたことだった。
「cripple」は、辞書を引くと「手足の不自由な人」と説明されているが、昔はもっと違う日本語が使われていた。しかし今の日本では、その言葉は差別用語になっていて、ほかの説明的な用語にうまくすり替えられたり、置き換えられたりしている。もちろん言葉そのものは消滅していず、多くの人たちがいろんな場面で平気で口にしている。ただテレビやラジオ、新聞や雑誌などから追放されたというだけだ。

 もちろんぼくも差別用語には反対だし、決して使わない。しかしアメリカやイギリスでは、日本のように奇妙にねじれたかたちで差別用語を設定したり、そのすり替え、置き換えをやったりすることは、あまりないように思う。そんなことをしても問題の根本的な解決にはならず、ただ隠蔽したり、ごまかしたりすることにしかならないとわかっているからだろう。
 だから英語圏の人がこの歌を聞くと、最後の「cripple」という言葉で、ものすごい衝撃を受けるはずだ。そしてたとえその言葉が発せられたとしても、それは手足の不自由な人たちへの差別や蔑視には向かったりはしない。
 権力を振り回し、弱いものいじめばかりしている立派なからだの持ち主と何も持たず抵抗し続ける人と、「cripple」なのはどちらなのか、何もかも手に入れているものこそが実は「不自由な人」で「不具な人」ではないのかという、サイ・カーンの真剣な問いかけを、聞いた人誰もがきっと正しく受けとめることだろう。そして彼が「cripple」という、とんでもなくきつい言葉を使ったのも、その怒りの激しさゆえだということも、ちゃんと伝わるのではないだろうか。
 それにしてもこの歌を日本語にする中で、「cripple」という言葉だけは、どうしてもうまく訳すことができなかった。差別用語という奇妙なかたちで言葉狩りが存在し続ける日本の現状を、ぼくはやっぱり打破できなかったということなのだろう。

 20年近く前に初めて聞いて、日本語にして歌いたいと思った「What You Do with What You’ve Got」を、どうしても今また歌いたいと思うようになったのか。その直接のきっかけは、5月の終わりに映画『祝(ほうり)の島』を見たからだ。
 山口県上関町田ノ浦に中国電力が原子力発電所を建設する計画が1982年に持ち上がり、海を埋めてそんなものが建てられたら、自然は破壊され、海も死ぬと、原発反対に立ち上がった、田ノ浦の対岸に位置する祝島の人々の暮らしや闘いが描かれた、纐纈(はなぶさ)あや監督のドキュメンタリー映画だ。

 上関原発問題は、『祝の島』を見る前からとても気になっていた。去年の11月、田ノ浦の近く、光市の伊保木村でフォーク・ジャンボリーが開かれ、ぼくもそれに参加したのだが、その時田ノ浦でシーカヤックに乗って抗議運動を続けている若者たちがジャンボリーに駆けつけ、メッセージを訴えかけたり、歌を歌ったりして、ぼくはとても感銘を受けた。
 夜の打ち上げには、祝島での原発反対運動の中心人物の山戸貞夫さんも来られ、みんなの前で現状を話してくださった。
 そしてその一週間後、埋め立てのためにコンクリート・ブロックを海中に投入しようとする中国電力の作業にシーカヤックで抗議運動をしていた若者が、中国電力の台船の上に引き上げられ、暴力を振るわれるという事件が起こった。このことは去年の11月26日の『徒然』にも書いているので、まだ読んでいない人は、ぜひ読んでみてほしい。

 しかもその後中国電力は、シーカヤックで抗議した若者二人と漁民二人に対して、何と4790万円の損害賠償の訴訟を起こしたのだ。またそれとは別に山口地裁は、工事を妨害する住民に対して、一日500万円を支払うべしという判決を下した。
 ここに浮かび上がるのは、大きな権力、金を持つ者が、何が何でも自分たちに反対する弱い者、小さな者を、徹底的に痛めつけようとする姿だ。
 この現実を前にして、そして島民たちの闘いが描かれた『祝の島』を見て、ぼくはどうしても「What You Do with What You’ve Got」を思い浮かべずにはいられなかった。そしてその曲をどうしても日本語で歌いたいと思うようになったのだ。
 
 祝島を取り上げた映画では、もう一作、鎌仲ひとみ監督のドキュメンタリー『ミツバチの羽音と地球の回転』も、今各地で上映されている。ぼくはこの作品を6月19日に国分寺のスロー・カフェで見ることができた。
 この映画からも、大きいこと、大きいもののためには、ひとりひとりの小さな暮らしなどどうなってもいいと考える今の日本の姿が浮かび上がってくる。それは本末転倒で、ひとりひとりの小さな暮らしを大切にしてこそ、やがて大きな素晴らしいことができるようになるのだと、ぼくは思わずにはいられない。そしてそんなぼくの気持を代弁してくれるのが、「What You Do with What You’ve Got」という歌なのだ。
「自分が持っているもので何をするのか」、日本語のタイトルは「豊かな恵みの使い道」にした。これからのぼくのライブでは必ず歌うので、ぜひ聞いてください。

共演の心得 2010年06月22日(火)

 かくしてぼくの禁酒は、たったの12日間で終わり、To drink or not to drinkと、ハムレットのように自問しつつ、飲みながら歌う日々がまたもや始まった。

 6月8日は渋谷の7th Floorで、赤木健さんが企画してくれたイベント「CHECK RAT YOU presents Smells Like Free Spirits」に伊東正美さんと一緒に出演。
 一緒に出るのは、大袈裟太郎とアドベンチャーズ、ソニックアタックブラスター、MCビル風邪、東京クレイジーソルツと、ぼくよりもうんとうんと若い世代のロック・バンドやラッパーばかり。みんな20代か30代前半で、ぼくの子供の世代と言える。そういう人たちと共演できるのが、ぼくはとても嬉しい。機会があれば、どんどん出演させてほしい。

 年齢順、あるいは年の功ということでもなかったのだろうが、赤木さんはぼくの出番を最後にしてくれ、9時10分から30分演奏することになる。ところがその日の入り時間は午後の2時半。そんなに早いのは、出演者全員がまずは顔合わせをするためだ。ぼくにとってはみんな初共演なので、顔合わせをしておくのは、とても大切なことだ。

 というわけで、ギターとギター・バンジョー、ワインの匂いがほとんど消えた機材バッグに売り物のCDなどを抱え、昼下がりに井の頭線の神泉駅から急な階段を上り、円山町のさびれゆくばかりのラブ・ホテル街を抜けて7th Floorに向かった。
 顔合わせが無事済んで(しかし来ていない人もいたぞ)、ぼくと伊東正美さんとのサウンド・チェックは4時から。それまで時間があったので、近くにあるヤマハにギターの弦を買いに行き、ひとつ打ち合わせを済ませて7th Floorに戻ると、正美さんも到着していて、ぼくのギターとギター・バンジョー、正美さんのエレクトリック・ギターで、簡単にサウンド・チェックを行う。10分ちょっとで済んでしまう。まだ4時10分頃だ。

 この日の開演は6時30分で、ぼくの出番は9時10分。何組もが共演するイベントの場合、自分が出演する時間まで戻らず、ほかの出演者の演奏には耳を傾けない人たちもいれば、自分の出演時間が終わると、ほかの出演者の演奏を聞かず、さっさと帰ってしまう人たちもいる。
 それはあまりにも寂しいと思う。せっかく共演するという機会を持てたのだから、お互いの演奏に耳を傾け合えばいいのではないだろうか。自分の持ち時間が終わればおかまいなしというのは、ほんとうに寂しすぎる。
 でもそれで平気な人たちがたくさんいるというのが現実で、聞きにくる人たちも自分のお目当ての、あるいは自分の友だちの演奏が終わると、ほかにどんな人がどんな演奏をするのかなという興味を抱くことなく、さっさと帰ってしまう。もしくは知り合いの出演時間に会わせてやって来て、終わるとすぐに帰ってしまう。かくして何組もが共演するイベントには、それぞれが持ち分をただ消化しているような、独特の寂しく侘しい雰囲気が生まれる。

 しかしこの雰囲気は、ライブ・ハウスがひとつのライブ全体の雰囲気や流れを考えず、ただ機械的に出演者をブッキングしている場合、しばしば生まれるもので、この日の7th Floorのように、イベンターがいて、ちゃんとした企画でライブが行われる時は、出演者がお互いの演奏を聞き合い、お客さんもずっと残ってくれて、とてもいい雰囲気になることが多い。

 というわけで、ぼくはいつでも共演者の演奏を聞きたいと考える人間だ。開演時間までは2時間20分。一緒にいるのは伊東正美さん。場所は渋谷の道玄坂上。というわけで、飲みに行かないわけにはいかず、ぼくらは開演時間まで、近くの居酒屋へと潜り込んだのであった。

 勢いに満ちた東京クレイジーソルツ、鼻血にもめげずラップし続けたMCビル風邪、薄井啓亨さんの古風な歌詞の世界がすごいソニックアタックブラスター、中身の伴った大袈裟さで勝負の大袈裟太郎とアドベンチャーズの演奏を、正美さんとぼくはワインのボトルを注文し、最前列のテーブルが空いていたので、そこに座って存分に楽しんだ。
 そしてサウンド・チェックを終えてから5時間の間に、若い世代のパワフルな演奏に接し、ワインもたっぷり飲んだことで、ぼくのボルテージは上がりに上がり、正美さんと二人で、「お手並み拝見」、「だびよんの鳥」、「30歳の子供」、「ビッグ・スカイ」の4曲を、パワー全開で演奏することができた。

 終わってからは、そのまま7th Floorで、共演者の何人かと楽しく交流。やはり音楽のことや自分たちのことを、本番が終わってから初対面の人たちと話し合う、こういう時間がないと、何組もが出演するイベントの中のいちばんの旨味が味わえないというか、画竜点睛を欠くような気がぼくにはする。
 それでぼくはこの夜は、井の頭線の最終に間に合ったのかな?

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