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       The World According to Goronyan


ナカガワゴロウの世界


恋はうまくいくこともある New! 2009年07月02日(木)

 大親友の早川義夫さんが、自分のホームページの今年3月頃の日記で、高樹のぶ子さんの『うまくいかないのが恋』という本について触れていたような記憶があって、早川さんが面白いと思っているのならきっとぼくにも面白いだろうと、その本を読んでみた。でもぼくはだめだった。
 そのタイトルどおり恋について、結婚について、セックスについて、生き方について、女性に向けて書かれているのだが、高樹さんの恋愛の捉え方が、ぼくにはあまりにも計算しすぎているというか、テクニックやメソッドを重視しすぎているように思えて、読み進むほどにどんどん引いてしまった。
 ただ『源氏物語』の中の光源氏の「飽かず悲し」(私の人生は思いどおりにいかない。満足できなくて悲しい)という言葉を引き合いに出して語られる、「不全」の思想には、心を動かされた(ローリング・ストーンズの「サティスファクション」もそれを歌っているのか。いや、違うかも)。

 高樹さんが言っていることはもっともなことばかりで、悩める女性にとってはためになるのかもしれないが、あとさきのことなどまったく考えず、ひたすら突っ走ってしまうのが恋愛だと思っているぼくのような者にとっては、何か別の世界のことが語られているような印象を受けた。
 何も考えず、何も見えなくなって暴走してしまうからこそ、ぼくの恋もうまくいかないのだろうか。そういう意味で「うまくいかないのが恋」というのはよく理解できるし、同感もできるのだが、高樹さんの場合は、ぼくとはまるで違う、もっと実利的、実践的な意味でそう言っているのだった。
 
 この本の中で高樹さんは「過去」ということにも触れていて、「過去の話を聞いても語っても仕方ない、という人がいますが、とんでもない。過去を知ることは、その人の恋愛体質を知るうえで、もっとも大事なことです。過去は情報の宝庫ですから、それを引き出す言葉のスキルは恋愛の大きな能力だと言えます。何を話しても大丈夫、と相手が思って昔の経験を語ってくれたなら、それだけで半分はゲットしたも同然です」と、説いている。
 これを読んでとても引っかかってしまったのは、ぼくはつい最近「過去」についての歌を作ったばかりだったからだ。恋人の過去についての歌で、タイトルは「言わなくてもいいよ」。そう、ぼくの場合は「過去の話を聞いても語っても仕方ない」どころか、「過去の話は聞きたくない、知りたくない」という、もっととんでもない人間なのだ。

 というのも恋人の過去は、自分にとっては手の届かないものというか、今さら立ち入れないもので、今好きで、好きでたまらない人の過去の話を聞いたりしたら、どうして自分はその「過去」の前にこの人と会えなかったのだろう、どうしてもっと早くこの人と知り合えなかったのだろうと、悔しくなってしまう。つまり立ち入れない恋人の過去に嫉妬してしまうのだ。これって、あまりふつうの反応ではない、とてもおかしいことなのかもしれない。
「言わなくてもいいよ」という歌の中で、ぼくはこんなふうに歌っている。

 今あるがままのきみが好き
 そんな今のきみを作り上げたのは
 きみの過去だとわかっている
 昔の恋人たちの影響を受けているのかも
 でもそんなことどうでもいいよ
 きみの前の相手が誰だとか
 どれだけ長く続いたのだとか
 どうしてだめになったのだとか
 きみとぼくとが恋に落ちて
 ここにこうして二人でいる
 目の前にいる今のきみだけ
 ぼくは見つめていたい
 目の前にいるきみの今のことなら
 ぼくは何もかも全部知りたい

 高樹のぶ子さんの小説は以前よく読んでいて、初期の作品の『光抱く友よ』は、ぼくの大好きな一冊だ。でも『うまくいかないのが恋』は、だめだった。
 どうしてあの早川義夫さんが、高樹のぶ子さんの『うまくいかないのが恋』を面白いと思ったのだろうかと、まったく合点がいかず、改めて早川さんのホームページの日記を読み直してみたら、本が面白いとは一言も書かれていなかった。
 早川さんは、こう書いているだけだった。
「最近勇気をもらった一言は、『うまくいかないのが恋』(高樹のぶ子)、『人生には何ひとつ無駄なものはない』(遠藤周作)です」
 そうか、早川さんは「うまくいかないのが恋」というこの言葉に反応したのか。確かに、うまくいかないのが恋というのは真実で、早川さんもそれが骨身に沁みてわかっていて、つらい思いをしているのだろう。
 でもうまくいかないのが恋だけど、うまくいくこともあるわけだ。恋は絶対にうまくいかないとは、高樹のぶ子さんも言っていない。
 早川さん、もうすぐうまくいきます。きっとうまくいきます。でも高樹のぶ子さんの『うまくいかないのが恋』を読んで、女性がどうアプローチしてくるのか勉強しようなんて思ったりしたらだめです。それに『うまくいかないのが恋』をマニュアルにして近づいて来るような女性とは、絶対にうまくいきません。
 恋は盲目、打算も技術も計画も手練手管もなく、とにかく玉砕覚悟で全身全霊でぶつかって行くのみです。

歌い手は歯が命 2009年06月30日(火)

 昨日6月29日、歯を抜いた。下の前歯の中の一本だ。もう何年も前からこの歯は悪かった。正確に言えば歯が悪いのではなく、歯の周りが悪い、すなわち歯周病で、もう骨の部分まで融けていて、幾つもの歯医者さんに行っても、どの歯医者さんからも、「これはもうだめ」、「抜くしかない」と、「死刑宣告」を受けていた。
 今の歯科医院に通うようになってから、もう一年半以上になる。初診の時にやっぱり「これは抜くしかない」、「早く抜きましょう」と宣告され、その後、治療やクリーニングで通院する中でも、何度もそう言われ続け、それでも抵抗し続けて来たのだが、遂に抜くことにした。抜こうと決心したというよりも、抜くしかないという現実を遂に受け入れることにしたのだ。

 もちろんぼくの歯が悪くなったのはこの前歯が初めてのことではない。若い時は歯の手入れなどほとんど真剣にやらなかったから、これまでにすでに何本も悪くなっていて、それらは当然というように歯医者さんに行くとばんばん抜かれ、その後はブリッジにしたり、放置されたままだったりする。
 しかも今回の前歯のほかにも悪い歯というか、歯周病になって骨が融けてしまっている歯がぼくの口の中にはまだ数本あって、それらもこれから抜かれる運命にあり、その後何らかの処置をしなければならないのだ。
 とにかく歯に関して、ぼくに自慢できることは一切なく、自分の歯をそんなふうにしてしまったのは、大切にせず、心をかけず、時間もかけず、ちゃんと愛さなかったこのぼくにすべての責任がある(歯、だけか?)。

 昔は悪い歯があるとすぐに抜歯と、歯医者さんたちはとにかくばんばん抜いていた。今はできるかぎり残すという流れになっているようで、即「抜きます」と言う歯医者は悪者扱いされてしまったりする。
 ぼくもその影響を受けて、「すぐ抜くと言う歯医者はよくないんだ」と安易に思い込んでしまった。そして今回の前歯を抜かなければならないという現実を前にして、「すぐに抜く歯医者は信用するな」というたぐいの本を、それこそ十冊以上、もしかすると二十冊近く読みあさった。
 しかし抜かずに残すというのは、虫歯ならともかく、歯を支える骨までもが融けてしまった歯周病の場合は、やはりどうやってみたところで、救いようがないみたいなのだ。嗚呼、かわいそうなぼくの前歯よ。

 歯を抜くということは、抜いた後どうするかという問題が必ず待ち受けている。そのままにしておくという手もあるが、それは論外として、解決策として、部分入れ歯、ブリッジ、インプラントと、たいていこの三つが挙げられる。
 今回の前歯は抜くしかないと「死刑宣告」を受けてから、ぼくはその後の方法のことも考え、ここでまたいろんな本を読みあさった。というか、歯を抜くことについて書いている本のほとんどが、当然のことながら、抜いたらどうするのかということに関しても多くの紙幅を割いていて、それぞれの持論を展開している。

 それらの本を読んで、ぼくがさんざん悩んだのは、インプラントという方法をどう受けとめればいいのかということだった。というのも、最初の頃インプラント絶対反対論者の谷口清さんの著作を次から次へと読んでしまい、その主張に感化されて、インプラントにはどうしても懐疑的にならざるをえなかった。
 その谷口清さんの著書は、書名からして、『歯科・インプラントは悪魔の囁き』、その改訂版の『歯科・インプラントは白衣の悪魔』、『インプラント嫌いの初診料10万円の歯科医は私です』、『日本人の歯をダメにした日歯・官僚・族議員・某総理』などなど、とんでもなくすごくて、しかも書かれている内容がとにかく過激で大胆で、やたらと面白い。それでついそこに引きつけられて、次々と読み耽ってしまったようなところもある。
 しかし「反インプラント治療」の旗頭とも言える谷口清さんは、残念なことに、少し前に突然他界されてしまった。まだ現役の歯医者さんだったら、著書の影響を受けて、その歯科医院にぼくは足を運んでいたかもしれない(しかし治療費も、そのほかのいろんなことでも、「ハードル」がものすごく高かった)。

 一方ぼくが通院している歯科医院は、インプラント治療を全面的に掲げているところで、「死刑宣告」を受けたぼくの前歯に関しても、抜いた後はインプラントがいいのではという提案を受けていた。
 そこで今度はインプラント賛成論者の歯科医たちの本を何冊も読みあさった。その内容にもなるほどと納得できるものがある。インプラント是か非かに関して、ぼくのベクトルは今度は反対側に大きく傾いてしまったりしたのだ。その揺れ加減が、歯の治療に関して、知識や確信、自信のないしろうとの悲しさなのかもしれない。

 しかし治療法としてのインプラントに納得しても、その値段はとても高い。今のところ保険はきかない。それでもインプラントがいちばんいい方法なのかなと、ぼくの気持ちが固まりかけ、そこで改めてレントゲンを撮ったり、CTを撮ったりしてみた。するとインプラント治療をするには、ぼくの問題の前歯の骨の部分はあまりにも融けすぎてしまっていて、難しいという診断が出てしまったのだ。というわけで、今回の抜歯の後はブリッジにしましょうということになっている。
 歯が抜けた後のいちばん「自然」な対処法は、やはり部分入れ歯ということになるのだろうか。ブリッジのようにまともな隣の歯を削らなくてもいいし、インプラントのように顎の骨に穴をあけなくてもいい。ぼくもそのことはよくわかる。しかし部分であれ、総であれ、入れ歯に対する抵抗はとても強くある。偏見なのかもしれない。人間60歳にもなれば、どこかに入れ歯が入っていても、仕方がないというか、もう許してあげてもいいのではないだろうか。そう思いたいのだが……。
 しかし大きな声を出して歌を歌う、時には叫んだりもする歌い手にとっては、部分入れ歯というのはとても不安なところがあり、それこそ大声をあげた時に飛び出してしまったりしたら目も当てられないことになってしまう(そんなことはまずないのだろうが、「90センチ」を歌う時は不安だ)。それに入れ歯にすると発声や発音が変わったりしてしまうと、これは歯科医師にも言われた。そんなわけで、ぼくとしてはどうしてもインプラントやブリッジのことを考えざるをえなかったのだ。

 と、ここで話は突然レナード・コーエンのことになる。6月24日に日本盤が発売されたばかりのレナード・コーエンのDVD『ライヴ・イン・ロンドン』が素晴らしく、何度も繰り返し見ては彼の歌の世界にどっぷり浸っている。
 このDVDは今からほぼ一年前、2008年7月17日にロンドンのThe O2 Arenaで行なわれた彼のコンサートの模様のすべてが収められているもので、レナードの楽曲そのものが素晴らしいことは言うまでもなく、ますます声が深く低くなり、表情も実に豊かになった彼のヴォーカルも、そしてレナードも含めて10人編成のバンドの演奏も実に素晴らしく、収録時間が156分、二時間半以上の長いDVDなのに、見始めたら途中でやめられなくなって、レナードの歌の世界の中毒となり、どうしても最後まで見てしまう。
 まったく同じ内容の二枚組のCDも出ているが、絶対にDVDがお薦めで、三浦久さんの素晴らしい訳詞の字幕を見ながら(語りもすべて訳されて字幕になっている)、レナード・コーエン・バンドの極上の演奏の中にぐいぐい引き込まれて行くうち、ぼくとしては初めてこの偉大な詩人の世界の中にまるごと入れたというか、ようやく、遂に、彼の世界を無理することなく理解できたように思えた。

 そのレナード・コーエンの世界については、また改めて書くとして、DVDを見ていてとても気になったのは、レナード・コーエンの歯のきれいなこと。今年で74歳なのに、彼は歯周病に苦しめられたり、抜歯やその後の処置について悩むことはまったくないのだろうか。
 そういえば多くの歌い手は、高齢になってもみんなきれいな歯をしている。やはりぼくと違って歌い続けるためには、歯がとても大事と、日頃のケアを怠らなかったのだろうか?
 90歳のピート・シーガーは、入れ歯の問題に悩まされることなく歌い続けているのだろうか? 77歳のランブリン・ジャック・エリオットの場合は? 68歳のボブ・ディランの場合は?

 昔「芸能人は歯が命」という、とても気恥ずかしいテレビ・コマーシャルのキャッチ・コピーがあった。しかもそれが歯をもとから大切にする商品のコマーシャルではなく、ただ歯を白くするだけの商品のコマーシャルだったというのが、ちょっとしたブラック・ユーモアになっていた。ほんとうに歯を大切にするのではなく、見た目を大切にするということで、歯が命と言っていたのだ。
 そんな表面的なことでなく、本質的なことで、ぼくは「歌い手は歯が命」だと思う。歌い続けるためには、歯がほんとうに大切と、60歳を間近にした今になって心から思う。若い時は歯のことなんてほとんど気にかけなくて、それでぼくの場合はこんなことになってしまっているのだ。
 歳を取るって、若い頃には考えもしなかったいろんなことを考えるようになってくるから、それはそれで面白い。歌い始めた頃、歯のことなんて考えただろうか。ああ、もっと歯を大切にすればよかった。60歳の今にして、心の底から悔やんでいる。

人前で歌うことで歌は自分の中に入って行く。 2009年06月24日(水)

 6月20日は下北沢の東京都民教会で、office 音符 otonofu企画のコンサート「礼拝堂にウタウモノコトたち」。出演はギターの末森樹(すえもりたつる)さん、ヴィオラのトビウオリアキさん、そしてぼくの三人。土曜日のコンサートということで、午後2時からのスタートだ。
 下北沢の駅のそばの住宅街の中にある東京都民教会は、ぼくが下北沢のラ・カーニャでしこたま飲んだ時、真夜中にふらふらと歩いて帰る途上にある。いつもは午前2時とか3時頃に、右手にその建物を見ながら通り過ぎるだけだったが、今日は初めてその建物の中に入り、コンサートまでやらせてもらうのだ。しかも午後2時の開演ということで、集合時間は午前11時半。いつもとまるで違う時間に(それこそ12時間もの違い)、ぼくは教会の前に辿りついた。

 コンサート会場となる礼拝堂は、天井が高くて音がよく響き、教会には音響設備も整っているのだが、生音でやることにする。出演者の三人全員が長椅子の客席に向かい合うかたちで、祭壇の前に並んで座り、交替で演奏していき、一緒にやれる曲はその場で一緒にやろうということになる。
 もちろんぼくが末森樹さんやトビウオリアキさんのギターやヴィオラの独奏にその場で参加できるわけはなく、要するにぼくの歌の時に末森樹さんやトビウオリアキさんがギターやヴィオラで入ってくれるということだ。
 トビウオリアキさんとは以前に二度ほど一緒にライブをやっているので、その時にやった曲を弾いてほしいとお願いする。これまで一度も一緒にやったことのない「いつも戸口までだったね」だけは、二人で一度だけ音合わせをする。
 末森樹さんとはライブはしょっちゅう一緒にやっているのだが、いわゆるソロ・ギター・スタイルというか、見事なテクニックでギター・インストゥルメンタル曲を披露する彼の世界とぼくの素朴でシンプルなフォークの世界はちょっと異次元のような気がして、ぶっつけで一緒に演奏することはほとんどなかった。でもこの日は、出演者のみんなが前に並んで、自由にセッションをするという趣向なので、気が向いたらぼくの歌にも参加してギターを弾いてくれるようにお願いした。
 このコンサートの企画をしたotonofuの末森英機さんも加わって、出演者みんなで全体の構成の打ち合わせをし、コンサートは午後2時から4時までのほぼ二時間、最初に末森樹さんがやり、それからトビウオリアキさん、そしてぼく、また樹さんになって、そしてリアキさん、最後はぼくで、二時間のコンサートだからそれぞれ40分ずつの持ち時間でやろうということになった(と思ったのだが…)

 というわけで、ぼくの一回目は、「父の日」(まさに翌日が父の日だったから)、「へんな夢」、「丸々赤ちゃん」、「消印のない手紙」の4曲、二回目は、「いつも戸口までだったね」、「For A Life」、「イマジン」、「ビッグ・スカイ」の4曲をやろうとその日のセット・リストを決め、一回目の最初の3曲はトビウオリアキさんにヴィオラで入ってもらい、二回目はリアキさんだけでなく、入れたら樹さんにもギターを弾いてもらうことにした。
 この日は教会が家の近所ということもあって、ぼくはいつものHaida Gwaiiのギターだけでなく、手に入れたばかりのGold Toneのギター・バンジョーも持って来ていて(重い!!)お披露目することに。初めて人前で弾くのだ。嬉しい。興奮する。でも緊張する。まずは「父の日」、「へんな夢」、「丸々赤ちゃん」の3曲をギター・バンジョーで歌おうと決めていた。

 かくしてコンサートは少し押して2時10分頃に開演。教会の関係者の人たちなど、20人以上の人たちが来てくれ、礼拝堂の長椅子はまずまず埋まっている感じ。年齢層はかなり高い。
 まずは末森樹さんのギター独奏。あらら、一曲しか演奏しない。続いてトビウオリアキさんのヴィオラ独奏。あらら、一曲しか演奏しない。すぐに一回目のぼくの出番となってしまう。
 そこでGold Toneのギター・バンジョーGT-500を弾きながら、トビウオリアキさんのヴィオラと一緒に「父の日」を最初に歌ったが、礼拝堂に不穏な空気が満ち満ちる。昼間のコンサートなので、来てくれた人たちの顔がとてもよく見えるのだが、前の方に座っている女性たちは一様に怖い顔をしている。
 しまった、選曲を間違った。翌日が父の日ということで、今日歌うしかないと思って「父の日」を歌ったのだが、大失敗してしまったようだ。やっぱり教会の礼拝堂で歌うのには、この「火宅の人」の歌はふさわしくなかったか(でも後で教会の牧師さんの奥さんから、「父の日」がとてもよかったと言ってもらった。教会にふさわしくない歌じゃありませんとも)。

 一回目のぼくの四曲が終わり、また末森樹さんの番になると、二回目も彼は一曲しか演奏しない。あらら、それじゃ短すぎる。そこでもう一曲やってくださいとお願いする。そして二回目のトビウオリアキさんもやっぱり一曲だけ。あらら、これまた短すぎるということで、もう一曲弾いてもらうようお願いする。
 しかしもうそこまでで、すぐにもぼくの二回目の出番となる。予定していた四曲のうち三曲をトビウオリアキさんのヴィオラだけでなく、末森樹さんのギターも入ってもらって演奏し終えても、時間はまだ3時15分頃。これじゃあまりにも短すぎる、コンサートが早く終ってしまうということで、急遽ぼくが曲を増やしてもっと歌うことにした。

 そして作ったばかりの新曲「1923年福田村の虐殺」をギター・バンジョーを弾きながら歌うことにその場で決めた。三日ほど前にできたばかりの曲なので、まだまだ練習不足で、歌詞もうろ覚えだったが、よし、歌ってみようかという気になった。
 全部で23番あり、24分ほどかかる歌なので、時間的にはちょうどいいというか、まさにこの歌を歌えといわんばかりに、こんな時間配分というか、進行具合になったようにも思える。教会でのコンサートだから、まさに天の思し召しだ。しかも新しい歌というのは、いくらひとりで練習しようとも、人前で歌わないと、自分の中に入っていかないのだ。

「1923年福田村の虐殺」は、森達也さんが2003年の春に晶文社から発表したエッセイ集『世界はもっと豊かだし、人はもっと優しい』(昨年春にちくま文庫になった)の中に収められていた「ただこの事実を直視しよう」という文章を読んだのがきっかけになって作った歌だ。
 6ページほどの短いその文章で、森達也さんは1923年(大正12年)9月6日に千葉県の今の野田市あたりの利根川の渡し場で起こった自警団員たちによる行商人たちの虐殺事件のことを取り上げている。それを読んでこの事件のことを初めて知ったぼくは、インターネットで事件のことをあれこれと調べ、そこで見つけた文章や資料なども参考にして、「1923年福田村の虐殺」という歌を作ったのだ。

 起こったことを、すなわち事実を、淡々と歌っていき、自分の考えをぶつけるのは、できるだけ控え、最後の22番や23番だけでぶつけるようにした。
「1923年福田村の虐殺」というタイトルからピンと来る人もいるかもしれないが、この曲は「1913 Massacre」(Massacreとは大虐殺という意味だ)を作ったウディ・ガスリーのソングライティング・スタイル、つまり事実を淡々と述べる中で自分の思いを訴えるというスタイルをぼくなりに学んで作ったものだ。
 メロディは物語を伝えやすいようにと、アメリカン・バラードの名曲で、アイリッシュの放浪者を主人公にしていることからアイルランドでとてもよく知られている「The Lakes of Pontchertrain」を下敷きにして作った(プランクシティ、ポール・ブレイディ、チーフタンズ、ピーター・ケイス、ビー・グッド・タニヤズなどのほか、ボブ・ディランも歌っている)。

 23番ある歌詞はうろ覚えのままだったので、いざ歌ってみると、覚えていないところがあったり、間違ってしまったり、うまく歌えなかったり、コードを間違ったり、ギター・バンジョーを弾き間違えたりと、さんざんな出来だったが、自分が作った曲ということで、歌詞が出てこない部分はその場で作り上げたりして、途中でやめることなく、何とか初演を歌いきることができた。ずるい話だが、人前で歌うのは初めての曲なので、誰も歌詞を知らないわけだから、正しいか間違っているのか、誰にもわからないというわけだ。
 でも人前で歌って、「1923年福田村の虐殺」がぼくの中にすごく入って来てくれたような気がした。ぼくは歌詞を見ながら歌うのはライブではないと考えている人間なので、とにかく歌詞をちゃんと覚えてからでないとどんな曲でも人前では歌いたくない。そして歌詞を覚えるには、とにかく何度も歌うしかなく、「1923年福田村の虐殺」の場合は一回歌うと24分かかるので、練習に三時間かけても六回ぐらいしか歌うことができないのだ。六回も歌うと、もうへとへとになってしまう。
 でもヘナヘナ、ヘロヘロの出来だったが、「1923年福田村の虐殺」を予定していたよりもうんと早めに、時間調整が必要という天の思し召しゆえに、人前で歌うことができてよかった。あんな出来でも、「よかった」と言ってくれる人もいてすごく嬉しかった。かなり大袈裟かもしれないが、これでようやくこの曲に初めて命が宿ったような気がする。この歌とぼくとの付き合いがやっと始まり、これからせっせと歌い続けていく中で、この歌はどんどんぼくの中に入って来てくれることだろう。

「1923年福田村の虐殺」をひとりで何とか歌い終えた後は、まさに教会で歌うのにふさわしい「帰天」の歌「ビッグ・スカイ」をトビウオリアキさんのヴィオラと末森樹さんのギターと一緒に歌っておしまいに。礼拝堂の中で軽くジャンプもさせてもらう。そして嬉しいことにアンコールもあったので、三人で「ミスター・ボージャングル」。それを歌い終えると、予定終演時間の4時もかなり回っていた。
 教会の礼拝堂での、しかも午後のコンサートということで、この日は一滴も飲まずに歌い、5時過ぎからの近所の居酒屋での打ち上げではその反動からか、すごいハイ・ピッチで飲み、しかも飲んだのがスペインの超安価ワインの「天使の涙」。酒屋だと500円以下で買えたりするのだが、居酒屋でもボトル一本が980円とすごく安い。さすが、庄屋!! 喜んで!! 教会でのコンサートの後に天使が待っていてくれたのだ。
 というわけで調子こいて飲みまくり、後半はまったく記憶がなく、どうやって居酒屋を出たのか、どうやってみんなと別れたのか、どうやって帰ったのかもまったく覚えていない。夕方5時前からの打ち上げだったから、店を出たのは9時か10時頃だったのだろうが、気がつくと家のドアの外でギター・ケースとギター・バンジョーのケース、それに機材やCDがいっぱい入った重いバッグをそばに置いて座り込んで眠りこけていて、時間はすでに深夜の0時近くになっていた。
 ああ、もし神様がどこかにいらっしゃるなら、そして天使たちがどこかから見下ろしてくれているのなら、あとひと月で還暦になるこの放蕩児をどうかお許しください。

続「ギター・バンジョー獲得顛末」 2009年06月18日(木)

 めったに出品されることのないアメリカ製のDeeringのギター・バンジョーをヤフー・オークションで落札しそこね、それでもギター・バンジョー獲得への思い断ち切れず、ほかのサイトで日本のAriaのギター・バンジョーを見つけ、それを扱っているお店は一切発送をしないので、一日かけて甲府までえっちらおっちら買いに行ったその顛末は、3月18日の徒然の「ギター・バンジョー獲得顛末」で詳しく書いた。
 そして手に入れたAriaのギター・バンジョー、SB-100Gを何とか弾きこなそうと、弦を張り替えたり、ヘッドの皮を強く張ってみたり、いろいろ調整して使い始めたのだが、どうやってもチュニングがうまく合わず、ネックもぼくには細すぎて、どうしても馴染むことができなかった。
 手に入れてからライブで弾いたのは、4月24日の吉祥寺MANDALA-2での村上律さんの「60になってすぐのライブ!」にゲストで出た時だけ。でもその時もやっぱりチュニングが合わなくて、弾いてもヘコヘコで、うまく弾きこなすことはできなかった。もちろんこのAriaのギター・バンジョーがすごくいいと言う人もきっといるわけで、たまたまぼくとは相性が合わなかったということだろう。

 というわけで、またどこかでDeeringのギター・バンジョーが出ないか(出たとしても正規の価格に近かったら、ぼくにとても手が出せないのだが)、あるいは手頃なギター・バンジョーはどこかに売っていないものかと、その後も必死で探し続けていた。
 そして遂に見つけたのだ!! 世界最大のオークション・サイトと言われるアメリカのeBayの日本向け公認サービスの「セカイモン」に、とてもいいギター・バンジョーが出品されていた。
 eBayで出品されている楽器関係は、手続きなどがいろいろとややこしいこともあって、そのほとんどが日本への発送に応じてくれないが、「セカイモン」で落札すれば、「セカイモン」がアメリカで品物を買ってくれて、いくらかの手数料を取るだけで、それを日本まで送ってくれる。海外発送の送料はかなりかかってしまうが、それでもeBayで出品されている楽器を簡単に買える、とても便利なサービスだ。

 ぼくがeBayというか「セカイモン」で落札したのは、1970年代や80年代はフォーク・ミュージシャンとして活躍したウェインとロビン・ロジャースが、1993年にフロリダで始めた新鋭バンジョー・メーカー、ゴールド・トーン(Gold Tone)のGT-500というギター・バンジョー。
 最初は持ち運びに便利な小さなトラベル・バンジョーの製作から始めたゴールド・トーン・バンジョーだが、それが評判となり、オーソドックスな5弦バンジョーやテナー・バンジョー、ギター・バンジョー、それにチェロ・バンジョーやマンドリン・バンジョー、ペース・バンジョーなどレパートリーをどんどん広げて行き、今ではバンジョーだけでなく、マンドリンやリゾネーター・ギター、ワイゼンボーン・ギター、アコースティック・ギターにテナー・ギター、ウクレレまでさまざまな楽器を作っている。

 ゴールド・トーンのギター・バンジョー(ゴールド・トーンではバンジョー+ギターの楽器ということで、バンジター/Banjitarと呼んでいる)は、今は全部で6種類あるが、オリジナルとなっているのは、ぼくが手に入れたGT-500モデル。それをもとにしてデラックス版のGT-750、エントリー版のクリップル・クリーク・バンジター(CC)、12弦のGT-1200、そしてエレクトリック・バンジターのESが作られている。
 もちろんセカイモンのオークションにその全種類が出ていたわけではなく、たまたまリム(木製のボディの輪)の内側に大きなクラックのあるB級品のGT-500が出品されていて、そんな「キズモノ」だからこそ、ぼくは落札することができたのだ。もしちゃんとした新品や高級品しか出品されていなかったとしたら、ぼくとしては、欲しくてもきっと手が出なかっただろう。

 一生の愛器となってくれそうなギター・バンジョー探しを懸命に続ける中(Desperately Seeking Guitar Banjo)、ぼくが「セカイモン」でゴールド・トーンのGT-500のB級品と出会ったのは、5月初めのこと。とにかく貧しいぼくにとっては高価な買い物だったが、5月の初めには個人的にとてもとてもめでたいことがあり、「よーし、お祝いだ」と(ほんとうはおめでたいことの当事者にお祝いしなければならないのだが)、清水の舞台から飛び降りる気持ちで(たとえが古い)、そのギター・バンジョーを落札してしまった(ちなみに落札価格がすでに決まっている「即決落札」で出品されていた)。

「セカイモン」でゴールド・トーンのGT-500を落札してからほぼ一月が過ぎた6月9日、「セカイモン」から「商品がセカイモンのロサンジェルスの物流センターに入荷し、検品作業を終えて、日本への発送手続きが完了しました」とメールが届き、翌10日には「成田空港に到着し、通関審査も無事通過しました」とまたまたメールが来た。そして遂に11日に、待ちに待ったゴールド・トーンのギター・バンジョーが、はるばるとアメリカ(おそらく東部)から、世田谷の寓居に届いたのだ。

 アメリカ(の特に西海岸)と梅雨時の日本とでは、湿気がまったく違うから、ヘッドの皮や木に負担をかけてはいけないので、届いてすぐに弦を張ることはせず、数日経ってからようやく弦も普通に張って、ヘッドの皮も調整し、ゴールド・トーンのGT-500をジャカジャカと毎日弾いている。
 GT-500はチュニングもぴったり合い、ネックの太さもぼくにぴったりで、音もギャンギャラ響いて、かなりいいのではないだろうか(ちなみにゴールド・トーンはアメリカのバンジョー・メーカーだが、ぼくが手に入れたGT-500は中国で作られている)。
 ハンバッカーのマイクもヘッドの中に内蔵されているので、ライブでもすぐ使えそうで、早速今週末、6月20日の下北沢の東京都民教会でのライブで弾いてみようと思っている。というわけで、ぼくは手に入れたギター・バンジョーに馴染む日々が続いていて、いつもギターで歌っている曲をギター・バンジョーでやってみたりすると、雰囲気や趣きがすごく変わったりして、なかなか新鮮だ。

 ただひとつ問題がある。このゴールド・トーンのGT-500、すごく重いのだ。重さ9ポンドということは4.1キロほどあって、ストラップで肩にかけて弾いていると、めちゃくちゃ疲れる。エレクトリック・ギターはそれよりもちょっと軽いぐらいだが(種類にもよるが)、もっと軽いアコースティック・ギターを弾きなれているぼくにとっては、この重さはかなりきつい。
 それはまだ耐え忍ぶとして、ライブに出かける時、ギター一台に重さ4.1キロのこのギター・バンジョー、それにさまざまな機材や売り物のCDを持って行かなければならないのかと思うと、その大変さにちょっとめげてしまう。行き帰りが電車のラッシュ時にあったりしたら、もう地獄を味わわなければならない。でもそれで楽しいライブができると思えば、苦労のしがいがあるか。
 ちなみにゴールド・トーンのGT-500よりも高級品のGT-750は、金属に真鍮(ベル・ブラス)が使われているようで、重さが11.3ポンド、5.1キロもある。
 あのブルース・スプリングスティーンは、ツアーに向けてゴールド・トーンのGT-500を二台買ったということだが、あんな大金持ちがどうしてGT-750にしなかったのかと調べたら、「GT-750はあまりにも重すぎるので、重さの点からGT-500にした」と、その理由がどこかに書かれていた。なるほど…。

 今後のぼくのライブ、ギターと一緒に持って行ける時は、いつもゴールド・トーンのGT-500も持って行き、二台を使い分けて面白いライブをするように頑張りますので、皆さん、ぼくのライブにぜひとも足を運んでください。肩を凝らし、手を痺れさせながら、張り切って歌います。
 新しい楽器が手に入って、ほんとうに嬉しい。歌い続けることの励みになります。

The Visitor and The Reader 2009年06月14日(日)

 ここ最近立て続けに、公開前の話題の映画を試写会で一足早く見る機会に恵まれた。ぼくが見たのは、『扉をたたく人』、『愛を読むひと』、『サンシャイン・クリーニング』、そして『パティ・スミス:ドリーム・オブ・ライフ』の四本。どの映画もそれぞれにとても面白く見ることができた。

 その中でいちばん感動したのは、『扉をたたく人』(The Visitor)だ。この映画の舞台はニューヨークとコネティカットで、主人公は妻に先立たれた大学の経済学の教授のウォルター。彼は大学での講義で何か新しいことをしようという意欲に燃えているわけではなく、毎年同じことを繰り返すだけのマンネリ状態で、それこそ生きることへの夢も希望もなくしてしまったかのような味気ない日々を送っている。そんな彼がひょんなことで、アフリカの打楽器のジャンベに夢中になってしまうという物語だ。

 この教授はコネティカットの自宅だけでなく、ニューヨークのマンハッタンにもアパートの部屋を持っていて、学会に出席することになってニューヨークに出張し、久しぶりに自分のアパートに帰ってみると、そこにはシリアからとセネガルからの移民のカップルが暮らしていた。
 長い間不在のままになっているウォルターのアパートの部屋に目をつけた詐欺師が、この部屋を無断で又貸しすることを思いつき、カップルはそれにまんまと騙されて、そこを借りて、暮らしていたのだ。

 最初は強盗に押し入られたと誤解して、攻撃的になっていたタレクとゼイナブのカップルだが、ウォルターが部屋の持ち主で、自分たちが騙されたということがわかると、一転して態度を変え、ことを荒立てないでくれと頼み込む。彼らは二人とも不法滞在者だった。
 とりあえずウォルターのアパートの部屋を出たものの、二人には行く場所がない。それを見かねてウォルターは、居場所が見つかるまでしばらく自分のアパートにいてもいいと言い、彼とカップルとの奇妙な同居生活が始まり、やがて彼らの間に友情が芽生えていく…。

 タレクはジャンベ奏者で、クラブや公園などで演奏し、ゼイナブは手作りのアクセサリーを作って、マーケットで売り、そうして二人は何とか生計を立てていた。ある日、二人が出かけている時に、ウォルターはタレクが置いていったジャンベをこっそり叩いてみる。ところがそれを帰って来たタレクに見つけられ、それがきっかけとなってウォルターはこの打楽器の叩き方を彼に教わるようになり、その魅力にどんどん取り憑かれていく。そしてジャンベというこの小さな楽器と親しむことによって、ウォルターは人柄が変わり、その生き方までもが変わってしまうのだ。

 ジャンベとはまったく結びつかない、いつもジャケットにネクタイ姿の堅物の大学教授が、きちんとした格好のまま、公園でみんなと一緒になって、嬉々となってジャンベを叩くシーンが素晴らしい。理屈とか説明抜きで、音楽の素晴らしさ、音楽で誰もが繋がれることを雄弁に伝えてくれる、とても説得力に溢れるシーンで、思わずジーンと来てしまう。

 お固い人間というか、楽しく自由に日々を生きるということとはまったく縁がないように思える人間が、あることと出会ったり、触れることによって、徐々にその人間性を変えていくという展開は、もちろんシチュエーションやストーリーはまったく違うが、ぼくの大好きなベルギーのジャコ・ヴァン・ドルマル(『トト・ザ・ヒーロー』の監督)の大好きな映画『八日目』を思い起こさせる。二つの映画には、とても共通する空気が流れているようにぼくには思えた。

 ジャンベに出会って変身するウォルターの物語も『扉をたたく人』の大きな主題だが、それと同時に、いや、それ以上に1966年ニュージャージー生まれの監督のトム・マッカーシーは(監督としてはこの作品が二作目で、映画俳優としては20年近く活躍している)、アメリカの移民問題のこと、出入国管理のことを、この映画を通じて描きたかったのだとぼくは思う。

 9.11以降、アメリカは国家としてはもちろんのこと、国民の間でも、移民やアメリカ以外の国の人たちに対して、とても厳しい目を向けるようになり、そんな状況の中で疑心や不安が拡大再生産されている。
 世界に向かって大きく手を広げ、希望と自由と機会とをみんな与えることをひとつの理念としていたはずのこの国は、すっかり変わってしまい、「見知らぬ人には親切に」という精神は失われ、見知らぬ人や異国の人はまずは疑ってかかれという風潮になって来ているようにぼくには思える。

 そしてもともとはよその国の人々に対して、見知らぬ人たちに対して、アメリカほど開放的ではなく、どちらかといえば排他的でさえあったぼくらの国は、その風潮を確実に受けとめている。
 助けを求めて、困り果てて、あるいは何であれ自分の夢を果したくてやって来る人たちに対して、ぼくらの国は何と冷たく、融通がきかず、木で鼻を括ったような態度で臨むことか。見知らぬ人たちに親切どころか、自分たちと「異質」と思える人たちをひたすら排除し、まずは不審と疑惑の目で「よそもの」を見ようとしているように思えてならない。
 よからぬことをしようと、その目的でいろんな国から日本にやって来る人たちがいることも事実だろう。しかしそうした一部の人たちのことがやたらとクローズ・アップされ、いつのまにかそれがすべてだとすり替えてしまうような風土が、この「島国」にはあるのではないだろうか。
 何をおめでたいことをと言われてしまうかもしれないが、ぼくは基本的にはぼくらの国は、来たいという人は誰でも迎え入れ、暮らしたいという人は誰でも受け入れる、まずは人を信じるところから始まる国であってほしい。
『扉をたたく人』を見ながら、ぼくはウォルターの変身に感動しつつも、アメリカの移民問題の現状を突きつけられ、そこから日本というぼくらの国が抱えているさまざまな問題のことを考えさせられてしまった。「よそもの」の排斥は、必ず国家の純粋性に、すなわち「国粋」に繋がっていくような気がして、ぼくはそれがとても恐ろしい。

『愛を読むひと』(The Reader)は、1990年代半ばに世界的なベストセラーとなり、日本でも翻訳書がかなり話題となった、ドイツの作家、ベルンハルト・シュリンクの小説『朗読者』がようやく映画化されたものだ。
『朗読者』は、ぼくも日本で翻訳書が出版された時、まわりで大評判だったのですぐに読んだが、主人公の女性ハンナが、20歳以上も年下の15歳の青年にいつも本を朗読させるのはどうしてなのか、その謎が途中ですっかりわかってしまい、それでちょっと興醒めしてしまったことを覚えている。
 スティーヴン・ダルドリーが監督したこの映画も、原作を読んでいない人が見たとしても、ハンナが朗読をせがむ理由がすぐにわかってしまうのではないだろうか。

 もちろん『愛を読むひと』は、ミステリー映画なんかじゃないのだから、それはたいしたしたことではない。しかしぼくがどうしてもこの映画の世界の中に入り込めなかったのは、1950年代後半から80年代にかけてのドイツを舞台にし、主要な登場人物が全員ドイツ人で、物語はナチス・ドイツの問題と深く関わっているのに、すべてのせりふが英語で喋られているからだった。
 街の看板や路面電車の表示などはドイツ語なのに、話している言葉は全部英語で、しかもハンナが青年マイケルに「ドイツの作品を読んで」と頼むと、マイケルは英語でドイツ文学の名作を読み出したりするのだ。

 もちろん映画の世界ではそれがあたりまえだということはよくわかっている。世界にあまねく通用する英語で映画を作ることが、商業的にも大々的な成功ときっと結びつくのだろう。でもぼくとしては、この映画はやっぱりドイツ語で作ってほしかった。原作自体がドイツそのものと切っても切り離せない以上、みんなが英語を喋っているというのはあまりにも不自然なのだ。百歩譲って、単なるエンターテインメントだけを目的にした映画なら、それも許されるかもしれないが、『朗読者』に関しては、どうしてもドイツ語で映画化してほしかった。
 たとえばもう3年も前になるが、『善き人のためのソナタ』という映画を見てぼくは激しく感動したのだが、もしもあの映画のダイアローグがすべて英語だったとしたら、ぼくはその世界の中にきっと入って行けなかっただろうと思う。

 それにしても映画の宣伝に関して、「賞」というものがあまりにも重視されすぎているようにぼくには思えてならない。アカデミー賞はもちろんのこと、ゴールデン・グローブ賞、それにカンヌやベルリンなど世界各地のさまざまな映画祭の賞など、それらを受賞したり、ノミネートされたりすると、映画の宣伝では、それが錦の御旗のように大々的に、堂々と、これでもかこれでもかというぐらい掲げられる。
 確かにそうした賞を受賞したり、ノミネートされることはすごいことだろうし、それを掲げればすごい作品だと思って映画館に足を運ぶ人もたくさんいるのだろうが、受賞した作品イコール傑作、ノミネートされた作品イコール傑作、あるいは受賞したりノミネートされた俳優の演技がとびぬけて素晴らしいとはかぎらないことは、受賞やノミネートを錦の御旗とする作品をいくつも見て、ぼくはいやというほど思い知らされている。

 映画にかぎらず、文学でも音楽でも、ぼくは「賞」というものを価値判断の基準にすることは、よしあしを決めるひとつの指標と考えることは、少なくともどんな賞でも鵜呑みですごいと受けとめることは、できるかぎり避けたいと思っている。
「賞」の権威に踊らされるのではなく、その呪縛から解き放たれて、どんなものでもまずは自分で見たり、読んだり、聴いたりして、それで判断したいのだが、こんなことを書くと「賞」とはまるで縁がない者のひがみと受け取られそうなので、もうこれ以上書かない。
 ちなみに『扉をたたく人』のウォルター役のリチャード・ジェンキンスは2009年アカデミー賞の主演男優賞にノミネートされ、『愛を読むひと』のハンナ役のケイト・ウィンスレットは2009年アカデミー賞の主演女優賞にノミネートされて受賞している。

 またまた文章が長くなりすぎてしまった。『サンシャイン・クリーニング』と『パティ・スミス:ドリーム・オブ・ライフ』のことは、またの機会にぜひとも書いてみたい。
『愛を読むひと』は、6月19日から、『扉をたたく人』は、6月27日からの公開となる。

しなやかでしたたかな「憲法フォークジャンボリー in おかやま」 2009年05月26日(火)

 5月16日と17日は「2009憲法フォークジャンボリー in おかやま」で歌うために岡山へ。「憲法フォークジャンボリー in おかやま」に参加するのは去年に続けて二回目で、催しそのものは今年で四回目となる。
 この「憲法フォークジャンボリー in おかやま」の実行委員会の中心人物というか、このジャンボリーのいちばんの推進力となっているのは、音楽集団「木々の緑、風そして人々の歌」を主宰し、「OZAKI UNIT」というユニットを組んで自らも音楽活動を続けている尾崎ツトムさんで、ぼくと同世代の尾崎さんは60年代後半からフォークと深く関わり続けている人物だ。
 その頃にもぼくは尾崎さんとお会いしているはずだが、もう40年以上も前のことなので、その記憶は曖昧だ。でもぼくが90年代半ば頃から、日本のあちこちでさかんに歌い始めるようになると、ぼくをすぐ岡山に呼んでくれ、これまでにもう十回近く、ぼくが岡山で歌う場を作ってもらっている。
 その中心となるのが、尾崎さんたちが岡山禁酒會館で行なっている「マンスリー・ライブ」で、何と今年で12年目、回数は111回に達している。今年の8月28日には、今年で三回目となる福岡風太さんとの九州・中国ツアーの一環として(今年は「エンジェル・スカイ・ツアー」と命名)、また尾崎さんに禁酒會館でライブをやってもらうことになっていて(「マンスリー・ライブ」の114回目で、今回は禁酒會館の2階ホールではなく、中庭でやる予定)、今からとても楽しみにしている。

「NO MUSIC NO PEACE」(音楽がないところに平和はない)というサブ・タイトルがつけられた「憲法フォークジャンボリー in おかやま」を開催するにあたって、主催者は次のようなコミュニケを出している。
「この催しは、集会ではありません。フォーク・ロック・ジャズ・邦楽・・・憲法九条を大切に思い、戦争のない平和な世界を願う、県内外の素晴らしい表現者たちが集結して『憲法九条』を謳歌する、『音楽の祭典』です。質が高く、バラエティー豊かな音楽を楽しみながら、この時代を考え、『憲法九条』の大切さ、『平和に生きる権利』を、みんなで再確認する『コンサート』です」
 つまり素晴らしい「憲法九条」の改悪を決して許してはならず、この条項をより強固なものに育てていくということでは、考えをひとつにし、強く固く結びつきながらも、同じその思いさえ持っていれば、コンサートでは、それぞれが思い思いの表現で、自由に演奏すればいいというもので、このしたたかさとしなやかさは、やはり尾崎さんが中心になっているからこそ生み出されているのだろうとぼくは思う。

 16日の夜は「前夜祭」が、市内の表町にある「鳥好」という居酒屋の二階座敷を借り切って行なわれ、そんな会場でお酒やお料理がふんだんに用意されているとなると、ただの飲み会になってしまいそうだが、ここでも「楽しく酔いどれながらも、締めるところはちゃんと締める」という、しなやかで、したたかな尾崎ポリシーがちゃんと貫かれている。全員が自己紹介をし、一言メッセージを言って、参加者全員の交流がはかられ、それから出演者がそれぞれ何曲か歌うことに。もちろんさすがは尾崎さん、P.A.もしっかり用意している。
 ぼくはリクエストがあったので「カム・トゥ・マイ・ベッドサイド」を歌い、それからぼくが訳した日本語版「イマジン」を歌うと、嬉しいことに「もう一曲」と声がかかり、歌詞はかなり変えているが、高石ともやさんのメロディで「受験生ブルース」を歌った。
 もともとぼくはボブ・ディランの「ノース・カントリー・ブルース」の替え歌でこの歌を歌っていて、ぼくが歌う時はほとんどそのメロディだった。高石さんのメロディでこの歌を歌ったのは、恐らく40年ぶりぐらいのことではないだろうか。むむむ、感慨深い。

 17日の「憲法フォークジャンボリー in おかやま」本番当日は、午前11時開演なので(実際にはその少し前にOZAKI UNITの大谷哲子さんのキーボード・ソロのカタロニア民謡「鳥の歌」で始まった)、ぼくは10時半頃に会場の天神山文化プラザ・ホールに行き、客席の隅に座ってみんなの演奏に耳を傾ける。ぼくの出番は15時頃の予定なので、それまではゆっくりと聴ける。
「しなやかに、したたかに」という尾崎さんポリシーで、コンサートはいわゆるフォーク・スタイルだけに限らず、ジャズを基本とするEGリビングやフラメンコ・ギターの金子兄弟、ディジュリドウの河田嘉彦さん、今回は「ノイズ」ギターと宮沢賢治作品の朗読との組み合わせで挑んだRrose Selavy/Celine、カリンバやバンデイロだけで歌う大阪のひきたま、そして民謡とちくわ笛の住宅正人さんなどなど、この「幅広さ」というか、間口の広さというか、柔軟さというか、やっぱり一言で言うならしなやかさが、とても素敵だ。
 憲法九条を守ろうという趣旨のフォークジャンボリーとなると、つい硬く、狭い催しになってしまうのではないかと考える人も多いと思うが、岡山の憲法フォークジャンボリーは、このしなやかさゆえに独自のものになっているし、力むことなく、それでも美しくしなって、決して折れることのないほんとうに強い力を、したたかさを持ち得ているのだとぼくは思う。

 11時から18時半頃まで、8時間近くに及んだ「2009憲法フォークジャンボリー in おかやま」のほとんどのステージを見て、ぼくがとても感心したのは、最後に出演した笠木透さんと雑花塾を中心とするグループの曲作りの仕方だった。
 笠木さんたちは毎年前半の時期にきちんと締め切りを作って曲作りのワークショップを行ない、そこにみんなで歌詞を持ち寄ったり、それらにメロディをつけたりして、なかば「強制的」に新しい曲を作っていくのだ。
 ぼくはどちらかといえば、歌は自然に生まれるのを待てばいいという考え方の持ち主だが、ワークショップのようなかたちの中で、期限を決めて作り出すというのもとても面白いことに気づかされた。笠木透さんと雑花塾、雑花塾のメンバーでもある山口県光市の上田達生さん率いる凪の座、そしてOZAKI UNITなどが、そうしたワークショップで生み出された、できたてほやほやの歌を憲法フォークジャンボリーのステージで歌っていた(中にはこの日初演というものもあった)。

 ほとんどの歌詞は笠木透さんが書いたもののようだったが、いろんな人がその歌詞に曲をつけ、新しい歌が次々と生まれていくというわけで、笠木さんがこれまで手がけた曲が1000曲近くあるというのも、なるほどと納得がいく。できることなら、ぼくもそのワークショッブにぜひとも参加させてほしいと思った。
 ちなみに笠木透さんの歌詞に尾崎ツトムさんが曲をつけ、この日OZAKI UNITで歌われた、生きるためには最低限何があればいいかと訴える歌は、「生きるためには何が必要/ほんとうに必要なものは何」と、ぼくがいつも歌っている「For A Life」のアンサー・ソングのようで、とても興味深かった。

「憲法フォークジャンボリー in おかやま」でのぼくの持ち時間は30分だったので、「へんな夢」、「ある街に図書館がありました」、長田弘さんの詩「世界は一冊の本」の朗読、「丸々赤ちゃん」、「わたしはリザ・カルヴェレイジ」、「理想と現実」と、できるだけコンサートの趣旨に添った内容で歌わせてもらった。春一番での飲み疲れもかなり回復していて、もう新ビオフェルミンS錠ものまなくなり、力一杯歌った(ちょっときばりすぎだったか…)。
 そして体調が回復したのをいいことに、終ってからの打ち上げや二次会ではぐびぐびと飲み続けてしまったが、「あっ、このままいったら、またからだを壊してしまう」と、一線を越える前に冷静さを取り戻したのであった。さすがに懲りたな、中川五郎。
 「憲法フォークジャンボリー in おかやま」には来年もぜひ参加したい。もし来年も参加できるなら、ぼくもちょっと曲作りのメソッドを変えたり、あるいは笠木透さんのワークショップに学んだりして、できたてほやほやの新しい歌をいっぱい歌いたいと、一年後のことなのに、早くも心は大きく逸ってしまっている。

ブラディ・メリーズ、デビュー!? 2009年05月23日(土)

 5月14日の大安の木曜日は、西荻窪のサンジャックでライブ。このお店でやるのは、今回が四度目で、初めて出たのは2008年8月の南谷朝子さんとのジョイント・ライブで、それから2008年11月の館野公一さんとのジョイント・ライブ、そして今年2月の多田葉子さんと一緒のライブと、ほぼ三ヶ月に一回の割合で歌わせてもらっている。
 今回のサンジャックは多田葉子さん、そして初めて一緒にやるというか、お会いするのもこの日が初めての熊坂るつこさんと一緒のライブ。ぼくとしては両手に花状態で、思わず顔がほころんでしまう。いや、顔がにやけてしまう。

 というわけで、4時半頃にサンジャックに到着し、サックス、クラリネット、ピアニカなどを曲によって持ち替えて吹いてくれる、すでに何度も一緒にライブをやったことがある多田葉子さん、そして初対面のアコーディオン・プレイヤー、熊坂るつこさんと三人で、今夜一緒に演奏する予定の8曲をさらっと合わせる。
 どの曲も一回合わせるだけでOKで、熊坂さんはぼくの曲をやるのは初めてなのに、一緒にやればすぐにどんな曲かしっかり掴んでくれ、曲の中に入って来てくれる。多田さんは、ぼくの曲はもうよくわかってくれていて、安心してすべてを任せられる。ぼくが言うのも変だが、三人のコンビネーションはとてもいい感じで、今夜のライブがとても楽しみになる。

 サンジャックは7時に開店し、開演時間の8時までお客さんが来てくれるのをひたすら待つ。来てくれたのは、ごく限られた数の人たちで、ほとんどがよく知っている人というか、いつもぼくのライブに来てくれる人ばかりだった。もちろん新しい人や、めったにぼくのライブに来てくれない人が来てくれれば万々歳だが、いつも来てくれる人がいるのはほんとうに嬉しいし、心からありがたいと思う。たとえ演奏する曲の多くが同じ曲でも、その夜だけにしか聞けない、その夜だけの特別な演奏をいつも聞いてくれる人のためにしたいと、見た目はへらへらしていても、ぼくはひとり気持ちを引き締めもすれば、高めもする。

 ライブはまずはぼくのソロで始まり、破局と修復と快楽のさまざまなラブ・ソングを5曲歌い、それから多田葉子さんと熊坂るつこさんの二人のコーナーへと続く。
 るつこさんがお兄さんのコントラバス奏者、熊坂義人さんと一緒に組んでいるケチャップ(catsup)の曲を二人で演奏したり、多田さんが「ワルツィング・マチルダ」を歌ったりして(とてもとても可愛い歌だった!)、ぼくの陰々滅々としたラブ・ソングで澱んでいたサンジャックの店内の空気が、彼女たちの痛快な演奏で一気に華やぐ。
 二人のコンビネーションは抜群に素晴らしく、音楽を心底愛するとてもピュアな思いに満ちていた。終ってからぼくは、「これからも二人で一緒にいっぱい演奏するといいんじゃないですか。バンド名なんかも付けちゃって。さしずめケチャップならぬ、ピューレーとか」なんて、つい余計なことを口走ってしまった。

 本番でも多田葉子さんと熊坂るつこさんとぼくの三人での演奏は実に楽しく、両方から二つの美しい花に挟まれ、二人の大きく豊かな胸に(直接的な意味ではない。あれっ、そんなことを言うと、かえって失礼か)思いきり身を預ける感じで、最近のライブでいつもやっている曲、「丸々赤ちゃん」や「For A Life」、「ある街に図書館がありました」や「イマジン」など8曲を、ぼくは存分に歌いきることができた。
 多田葉子さんと熊坂るつこさんが「いいよ」と言ってくれるなら、これからもこの三人の組み合わせでいっぱい演奏したい。こちらもバンド名なんか付けちゃって。ぼくら三人なら、さしずめケチャップでもピューレーでもなく、ブラディ・メリーズなんかがいいかな…。

 終ってからは、多田さんと熊坂さん、そしてサンジャックの平林夫妻と一緒に軽く飲み(ぼくはまだ調子が悪い)、話題は自然と5月2日に亡くなった忌野清志郎さんのことになる(みんな清志郎さんの大ファンだ)。
 平林知己さんが清志郎さんへの熱い思いを語りに語り、多田さんは、密葬や葬儀でのマスコミの「傍若無人」ぶりを伝えてくれた。
 ぼくは滅多にテレビを見ないが、たまに見ると、ニュース番組も含めて、いろんな番組でのあまりにものひどさというか、無神経さ、そしてその狂躁ぶりにうんざりさせられ、長く見ていることはできない。
「清志郎さんの葬儀の様子を伝えるテレビは絶対に見たくなかった」と断乎として言う、平林さんの気持ちはぼくもとてもよくわかる。とんでもない悲しみの場を、ただの「取材対象」、「題材」、「ソース」として追いかけなければならないなんて、職業とはいえ、とてもいやなことだろう。そうならば、せめてそのことに対する「気のとがめ」や「恥じらい」、「後ろめたさ」を持ってほしいと思う。しかしブラウン管(古いね、今だと液晶かプラズマの画面ということか)の中でいかにも悲しそうな、あるいは深刻そうな顔をして喋る人たちからは、そうしたことがまったく感じられない。これはいったいどういうことなのだろう?

ぼろぼろの胃腸にソースカツ丼 2009年05月22日(金)

 春一番の五日間、というかその前日にライブをやった岸和田の夜も含めて六日間、激しく飲みまくったので、5月7日の朝はさすがに体調が悪く、大阪から東京へと帰る途中で、熱は出るわ、寒気はするわ、頭は痛いわ、お腹は下すわと、ひどいことになってしまい、帰ってすぐ二日間寝込んでしまった。
 しかし5月9日は群馬県桐生市の古い酒蔵、有鄰館で早川義夫さんと佐久間正英さん、鈴木亜紀さん、そしてぼくの三組でのコンサート『歌う詩人達の夜』がある。それまでに何とか治さなければならない。体調不良で歌えないなんてことになってしまったらどうしようもないと、ひたすら安静を保つようにして、9日の朝はどうにか動けるほどに回復した。しかし熱こそないみたいだが、頭は痛いし、お腹も調子悪く、果たしてちゃんと歌えるのかと不安でいっぱい。

 桐生へは車でみんな一緒に行くからということで、午前11時に集合場所の新宿駅西口地下交番前に。すでに来ていた早川さんに「お腹の調子が悪くて」と訴え、「何か薬を買って来るから」と、近くのドラッグストアを探す。ぼくはふだんめったに薬を飲まないので、ドラッグストアに行ってもどの薬を買っていいのかわからず、とりあえず腸の調子が悪いのだからと、昔からよく知っている新ビオフェルミンS錠を購入。
「こんなの買って来た」と、早川さんに見せると、「そんなもの病気の時にのむ薬じゃなくて、ふだんお腹の調子を整えるためにのむ薬で、ぜんぜんだめだよ」と言われてしまう。用法・用量には成人一回3錠と書かれているが、「いっぱいのまなくちゃ効かないよ」と早川さんに言われるまま、10錠以上を一気にミネラル・ウォーターで流し込む。果たして効きますやら。

 週末のETC利用の高速料金が安くなったので、高速道路はかなり混むのかと思っていたら、そんなことはなく、車は快調に走り、ぼくのお腹の調子もビオフェルミン十数錠のおかげか何とかちゃんと保たれ、1時過ぎには今日の会場の桐生市の有鄰館に到着。
 着くとみんなが「お腹がすいた」と言い、桐生名物のソースカツ丼を食べに行くことに。ぼくは大阪から東京に戻って寝込んでいた二日間、ほとんど何も食べていなくて、いきなり脂っこいカツ丼なんて絶対に無理だと思いつつ、コンサートの主催者の黄漠旅団の須永徹さんお奨めのソースカツ丼のお店「志多美屋本店」へ。
 何かほかの胃腸に優しいメニューもあるだろうと思っていたが、それは甘かった。メニューはソースカツ丼のみで、大か小を選ぶだけ。ソースカツ丼はとてもおいしかったが、胃腸をこわしているぼくにはさすがにヘビーで、しばらくすると調子がすごく悪くなって来た。そこでまたまた新ビオフェルミンS錠を10錠ほど投入。見るに見かねて早川さんが、常備しているビオフェルミンの止瀉薬をぼくにくれる。それもグビッとのむ。早川さんは止瀉薬だけでなく、いざという時のためにいろんなものを常備しているのだ。備えあれば憂いなし。備えがあっても使うことなし。

 会場の有鄰館には煉瓦蔵、酒蔵、塩蔵、味噌・醤油蔵などいくつもの蔵があり、古いものは天保時代(19世紀半ば)に建てられている。ぼくらのコンサートが行われるのは酒蔵で、同じ日の昼間、いちばん大きな煉瓦蔵では山田五郎さんの講演会が行われていた。
 ソースカツ丼屋さんから有鄰館に戻ると、ちょうどこれから講演を始めようとする山田五郎さんが入口のところに立っていたので、声をかけて挨拶をする。実はこの五郎は以前あの五郎さんのラジオ番組に出演したことがあり、確かその時は昔の中津川フォーク・ジャンボリーについていろんな話をしたのだった。五郎さんは同じ日、同じ場所でこの五郎も出演することを知って、「偶然ですねえ」と、まん丸い目をしてびっくりしていた。

 コンサート『歌う詩人達の夜』は、18時開演で、ぼく、鈴木亜紀さん、そして早川義夫さんと佐久間正英さんの出演順で、それぞれの持ち時間は45分。この日は謡象(うたかた)のギタリストの伊東正美さんが愛器のテレキャスターを持って急遽駆けつけてくれ、久しぶりに一緒に演奏する。
 出番前には焼酎を一口舐めただけで、お酒をがぶ飲みすることもなく、新ビオフェルミンS錠とビオフェルミン止瀉薬も何とか効いてくれたみたいで、短距離走を走るみたいに、45分間を全力疾走でギターを弾きながら歌った。いつものように曲間にあまり喋らずに、次から次へと7曲歌い、ラストの「90センチ」を歌い終えた時には、ぼくは完全に力尽きてしまっていた。
 ソースカツ丼を食べていなかったら、ここまでのパワーは出なかったかもしれない。いや、そうではなく、久しぶりに伊東正美さんのギターと一緒にやって、伊東さんを煽り、伊東さんのギターに煽られながら、ぼくはパワー全開に持って行くことができたのだと思う。やっぱり誰かと一緒に演奏するのはとても楽しいし、力ももらえる。

 アンコールは出演者全員で、早川さんの「いい娘だね」を演奏。一番を早川さんが歌い、二番を鈴木亜紀さん、そして三番をぼくが歌うということで、数日前に連絡を取り合い、ぼくは「病床」で早川さんのCDを聴きながら個人練習していたのだが、歌詞を覚えることばかりにかまけて、メロディを忘れてしまい、本番で三番を歌いだしたら音がまるで違っていて、せっかくの出演者全員共演の「夢」のアンコールをぶち壊してしまった。ほんとうにごめんなさい。面目ない。歌にはビオフェルミンも効果なし。
 でもまたまたアンコールがあったので、もう一曲、早川さんの「きみでなくちゃだめさ」を全員で演奏。ふふふ。

 コンサートが終わると、有鄰館から少し離れたところにある「南座」という素敵なお店で、素晴らしいお料理とお酒いっぱいの打ち上げが用意されていて、みんなはごちそうに舌鼓を打ち、お酒も各種グビグビと、至福の時を過ごしていたが、ぼくはやっぱり調子が悪く、頭も痛くて、ほとんど飲んだり食べたりすることができない。ああ、つらい。ああ、もったいない。
 そしてみんなは打ち上げだけで終ることなく、次の店へと流れたのだが、ぼくはもう限界で、ひとり寂しくホテルの部屋に帰り、新ビオフェルミンS錠を10錠のんで、ベッドに倒れ込んだのであった。
 いくら楽しい催しがあったとしても、何日も連続しての暴飲暴食は絶対に慎まなければならない。ぼくは身を持ってそのことを知った。でなきゃ次の楽しい催しの時に、一緒に楽しめなくなってしまう。いつもがぶ飲みの中川五郎、さすがに懲りました。

酒と涙の春一番2009 2009年05月21日(木)

 5月12日の『徒然』で書いたように、今年の春一番(正式には「祝春一番2009」)は、5月2日の「ニュー・モーニング」から6日の最終日までの五日間、毎日会場の服部緑地野外音楽堂に通い、たくさんの出演者の演奏に耳を傾けた。といっても、毎日11時の開演時間にはなかなか行けなくて、会場に着くのはどうしてもお昼過ぎになってしまい、最初の頃に出る人たちのステージは見逃してしまうので、耳を傾けられたのは出演者全体の七割ぐらいということになる。ちなみに4日はぼくが開場時間と同じ11時からの演奏だったので、その日のステージはぼくの出番が終わってから最後まで全部しっかりと見ることができた。

 しかしステージを見るといっても、ぼくの場合は、ワインや焼酎や日本酒やビールなど、お酒を飲みながらの「鑑賞」となるので、その日の後半に出る出演者の印象や記憶はどうしてもあやふやなものになってしまう。コンサートが進むにつれて、ぼくの酩酊度も増していき、コンサートも終わり近くになるとかなり酔っ払ってしまい、何が何だかわけがわからなくなっている時が多かったりするのだ。
 ステージを見る場所は、ステージの前の方の席の端っこ、中央の開いている席、あるいはかぶりつきなどまちまちだが、たいていは客席中央のいちばん後方の芝生席のあたりにいる。そこは毎年大阪や名古屋や新潟などあちこちから春一番にやって来る人たちが集う指定席のようになっている。ビニールシートの上にお酒やお料理を並べ、しっかりステージを見たり、お酒をぐびぐび飲みまくったりと、みんなそれぞれのやり方で春一番を楽しんでいて、ぼくはいつもその場所に潜り込ませてもらう。
 そうすると、「五郎ちゃん、まあ、飲みーな」と、いろんなお酒がもらえるし(卑しい)、「五郎ちゃん、これ食べてみ」と、いろんなお料理もごちそうになれる(卑しい)。そんなわけで、その席に座ったり、寝転んだりしてお昼過ぎから春一番を楽しみ、終演近くの夕方には、毎日すっかりできあがってしまっている卑しき中川五郎なのであった。

 五日間で、古くからよく知っている音楽仲間、若いけどよく知っているいろんな人たち、昔から名前はよく知っているけどあまり聞いたことがなかった人たち、そして年寄り、若者に関わらず、今回初めてステージを見た人たちと、いろんなミュージシャンのステージを見たが、今回ぼくがいちばん衝撃を受けたのは、2日の「ニュー・モーニング」のすごく早い時間に出た(この日だけは午後2時開演で、確か出番は二番目だった)島崎智子さん。
 彼女のことは前からよく知っていて、今までに出たアルバムは全部聴いているし、一緒にライブをやったこともあるし、福岡風太さんの車(おんぼろバン)で一緒に東京から大阪まで往復の旅をしたこともあるのだが、今年の春一番での彼女のステージはほんとうに素晴らしかった。
 客席の中に作られた特設ステージで、エレキ・ピアノを弾きながら島崎さんは4曲ほど歌い、その歌に中にぼくは思いきり引きずり込まれ、心を激しくかきむしられてしまった。彼女の歌を生で聞いたのは久しぶりだが、しばらく聞かないうちに、彼女はとんでもなく大きく、強くなっている。これまでにも増して(前からとても熱く激しかったのだが)何があっても歌い続けようという彼女のまっすぐな志が伝わって来て、気がつくとぼくの頬を涙が伝っていた。

 その日はやはり客席の中で歌った博多の平田達彦さんも素晴らしかったし、初めて生を聞いた踊ろうマチルダもとてもいい味を出していた。ゲストで参加したトランペットのみつかぜさんは、ぼくの娘の中学か高校の同級生で、こんなところで見かけるとはびっくり。確か彼と娘は学校の文化祭で一緒に劇に出ていたのだ。

 2日の夜、「ニュー・モーニング」が終って、友だちと会場近くの江坂で飲み、11時過ぎに寝屋川市の実家に戻ると、NHKのニュースで忌野清志郎さんが亡くなったことを告げていた。ぼくは清志郎さんとは直接会ったり話したりしたことは一度もないが、その歌を聞いたり、活動を見て、すごい人だと常々思っていた。「何て残酷なこと」。もっともっと歌いたかっただろうし、もっともっとすごい歌を作って、歌ってくれただろうに。とても大きな人を奪われてしまった喪失感に襲われ、やりきれない気持ちになる。

 翌3日からの春一番は、清志郎さんを追悼する思いが満ち溢れたものとなった。会場に集まったたくさんの人たちが清志郎さんを失ったあまりにも悲しい思いを共有し、清志郎さんと親しかったミュージシャン、一緒に活動をしていたミュージシャンは、自分のステージの中で彼への溢れ出る思いを思いきりぶつけていた。ぼくは遅れて会場に着いたので見ることができなかったのだが、5日に出演した三宅伸治さんの心中はどんなだっただろうか? よく春一番に駆けつけて演奏してくれたと思う。

 2009年の春一番の最終日6日の、最後の前の出演者は、春一番のプロデューサーの一人、あべのぼるさん率いるMagic ANIMALSで、彼らは壮絶なステージを繰り広げ、いちばん最後の出演者は、春一番のもう一人のブロデューサー、福岡風太さんが絶賛するハンバート・ハンバートで、夫婦での出産を経た後の、うんと大きく逞しくなったステージを見せてくれた。飛び入り参加した渋谷毅さんのピアノもとても美しかった。
 ステージの前の端の方に立って、かぶりつきでMagic ANIMALSやハンバート・ハンバートのステージを見ながら、ぼくは「今生きていること」や「ここからいなくなってもう歌えなくなってしまった人たち」のことを考え、生きる喜びと生きる悲しみとを改めて思い知らされ、気がつくとやっぱり泣いてしまっていた(歳を取ると涙もろい?)。
 ハンバート・ハンバートの歌ならよくわかるが、Magic ANIMALSで泣くなんて何だかおかしいようにも思うが、わかってくれる人は、絶対にわかってくれると思う。いい音楽は、人の心を激しく震わせ、優しい気持ちでつい涙腺を緩ませてしまうのだ。

六人の天使と一人の悪魔 2009年05月12日(火)

 今年もまた春一番コンサートの季節がやって来た。今年も出ることができて、とても嬉しい。
 春一番は毎年恒例のお祭りのようなところがあるが、だからといってぼくは、毎回同じようなことをしたり、同じ歌を歌って、ただ楽しむつもりはない。それよりも春一番は、それまでの一年間の自分の活動を集約し、その「成長」ぶりをみんなに評価してもらう、毎年一回の厳しくもあたたかい「試練」の場だと思っている。毎年同じことを繰り返すつもりはぼくには毛頭なく、毎年新しいこと、違うことをやりたいと思っている。

 それで今年は何をしようかということになり、春一番コンサートのプロデューサーの一人でもある福岡風太さんともいろいろと相談するうち、女性バンドがいいねということになった。
 女性バンドと一緒の演奏は、すでに東京で真黒毛ぼっくすの女子部と一緒に何度もライブをやっているし、もっと遡れば、バイオリンのHONZIやアコーディオンの良原リエさん、ベースのフジモトマミさん、ドラムスのChacoちゃんなど、女性ミュージシャンばかりの「大奥バンド」と一緒に演奏していたこともある。
 女性ミュージシャンだけのバンド、ぼく以外は全員女性での演奏というのは、ぼくの生涯の夢にして、揺るぎのないひとつの確固とした目標でもあるのだ。その理由は、第一にぼくが女性好きということが挙げられるのだろうが(ガクっ)、女性と一緒に演奏すると、男性と一緒の時とはまるで違う空気や感覚が生み出されることが多くて、そこがたまらなく好きだったりする。

 というわけで2009年春一番は女性バンドでということに決まり、風太さんと相談して、東京からメンバーを連れて行くのは経費の面でなかなか厳しいからと、大阪の女性ミュージシャンで春一番のためのバンドを作ろうということになった。
 そこで白羽の矢が立ったのがカオリーニョ藤原さん。カオリーニョさんは、女性ミュージシャンばかりのバンド、ボッサ・トレスを率いて活動したりしているから、そのメンバーを全員強奪してしまおうということになったのだ。嗚呼、しかし、カオリーニョさんは男性。
 ぼくはカオリーニョさんとはこれまでに何度も会っている。大阪で一緒のコンサートに出たりして、彼のステージを見る機会も何度もあった。その時は、いつも必ず女性ミュージシャンと一緒に演奏していて、女性バンドのオーガナイズを頼むならもうカオリーニョさんしかいないと、ぼくも早くから決めていたのだ。
 それにこの3月には、南谷朝子さんとカオリーニョさんと一緒に京都でライブをして、その時にはぼくのステージでもカオリーニョさんにギターを弾いてもらった。嗚呼、しかし、カオリーニョさんは男性。

 かくしてカオリーニョさんがメンバー集めに尽力してくれ、3月の終わり頃には、参加メンバーも確定した。ドラムスが太田ピカリさん、エレクトリック・ベースとウッド・ベースが東ともみさん、サックスがあのゆかりさん、トロンボーンがヨシカワヨシコさん、アコーディオンが前川サチコさん、ピアニカがブーラスク眼鏡橋さん。そしてリード・ギターがカオリーニョ藤原さん。嗚呼、しかし、カオリーニョさんは男性。そこでぼくのバンドの時だけは、カオリーニョさんにカツラを被ってもらい、お化粧もしてもらって、「女性」のセニョリータ藤原さんになってもらうことにした。
 バンド名もエンジェル・スカイ・オーケストラに決めた。中川五郎と六人の天使と一人の悪魔。それがエンジェル・スカイ・オーケストラだ。

 持ち時間に合わせて演奏予定曲も決め、音源とコード譜をカオリーニョさんに送り、大阪で準備を進めてもらおうと思っていたら、4月12日に大阪のサンホールで行なわれる春一番のプレ・イベント『おでんとビールとロックンロール!!』にぼくも飛び入りで出演できることになり、これは絶好のチャンスと、そのステージをカオリーニョさんたちと一緒に、すなわちメンバーが集まりつつある、過渡期のエンジェル・スカイ・オーケストラで演奏することにした。
 というのも、そのイベントにはカオリーニョ藤原さんのボッサ・トレスも出演することになっていて、ボッサ・トレスのメンバーのともみさんやピカリさん、ゆかりさんはエンジェル・スカイ・オーケストラのメンバーになってくれていたからだ。もちろんカオリーニョさんもメンバーだ。嗚呼、しかし、カオリーニョさんは男性(しつこい)。
 当日はみんなでさらっと簡単な打ち合わせをしただけで、春一番で演奏する予定の5曲、「ビッグ・スカイ」、「ある街に図書館がありました」、「丸々赤ちゃん」、「へんな夢」、「For A Life」を、ほとんどぶっつけ本番でやってみた。とてもいい感じで、春一番の本番への期待が大きく大きくふくらんだ。

 それからおよそ三週間、今年の春一番は5月2日の「ニュー・モーニング」も含めて、2日から6日までの五日間。ぼくが春一番で大阪に行くのに合わせて、富田林の古くからの友人が、1日に富田林でライブを主催してくれることになり、1日から大阪へ。
 そして3日の夜に、全員が揃ったエンジェル・スカイ・オーケストラと一緒に、これまた軽く一回だけ通す感じでリハーサルを決行し、4日の春一番コンサート本番に向かったのであった。
 5月4日の春一番三日目のエンジェル・スカイ・オーケストラの出番は、開場開演時間の午前11時から。すなわち11時の開場と同時に演奏を始めるわけで、ゲートが開いて最初のお客さんが入って来るのと同時に、「ワン、ツー、ワン、ツー、スリー、フォー」のカウントで「ビッグ・スカイ」がスタート。二曲目の「ある街に図書館がありました」の途中ぐらいで、みんなはすでに席に着いていて、それからは多くの人がじっくりとぼくの歌に耳を傾けてくれていたように思う。何しろ午前11時過ぎだから、ステージで歌っていて、客席の様子がよく見えるのだ。たとえ0.3くらいの視力でも。
 三曲目はピート・シーガーの「丸々赤ちゃん」。去年の秋に日本語歌詞を作ってから、ライブでは毎回欠かさず歌っている、今いちばん歌いたい曲で、歌い始めた頃に比べて、歌がどんどん自分の中に入り込んで来ているように感じる。エンジェル・スカイ・オーケストラは、いわゆるロック・バンドの編成ではなく、サックスやトロンボーンのホーン・セクション、アコーディオンやピアニカの鍵盤セクションが入っているから、とてもいいアンサンブルを生み出せる。ここにバイオリンが、それもカオリーニョさんともとても親しかったHONZIがいたりしたら、ほんとうに最高なのだが、それはいくら願っても、もう叶わないことだ。悲しい。いたら、ほんとうに楽しかっただろうな。

 四曲目の「へんな夢」と五曲目の「For A Life」は、子供たちのコーラスを入れてぜひやりたいと、春一番のブログなどで募集したのだが、悲しいかな、応募数ゼロ。「保護者の参加も可能だが、母親に限る」なんて、変に下心丸見えの条件をつけてしまったからか。いや、そんな些細な問題ではなく、ぼくの歌を一緒に歌ってみたいと思う子供はなかなかいないという話だ。
 しかしそれでもめげないのが福岡風太さん。サウンド・チェックの時のセッティングでは、コーラス用のマイクがちゃんと二台用意されていて、何も知らないぼくは、「あれっ、どうしてかな? 子供コーラスの応募者は一人もいないのに」と、不思議に思っていたら、何とステージ脇や楽屋でいろいろと仕事をしている春一番の女性スタッフがコーラスに参加してくれることに。
 サウンド・チェックで軽く一回合わせ、本番でも春一番女性スタッフ特別コーラス隊が、「へんな夢」と「For A Life」にコーラスで参加してくれた。年齢的には、当初の予定とかなりずれてしまったが、みんな少女の心を持ち続けている人たちばかりで、ぜひともコーラスを入れてこの二曲をやりたかったぼくとしては大満足だった。参加してくれた「少女」たち、ほんとうにありがとう!!

 ぼくの出番は11時半には終わり、後はゆっくりと客席でほかの出演者の演奏を楽しむ。もちろん出番のこの日だけでなく、2日のニュー・モーニングも、前日3日の春一番も、そして出番の後の日の、5日と6日の春一番も、ぼくは客席のあちこちで、大好きな赤ワインや焼酎、ビールや日本酒、泡盛などを飲みながら、いろんな出演者の演奏を楽しみ、全五日間、計37時間に及んだ『祝春一番2009』の全ステージの七割は見たのではないかと思う。
 ということは、30時間以上は確実に飲んでいたということか。いや、終ってから連日みんなで飲みに行っていたりしていたから、それが一日あたり三時間としても、春一番の五日間で、ぼくは45時間はずっと飲んでいたということになる。しかも5月1日の富田林でもしっかり飲んでいたなあ。
 そんな飲みながら見た今年の春一番のことはまた改めて書いてみたい。
 そしてエンジェル・スカイ・オーケストラ、2009年の春一番一回のためだけのスペシャル・バンドで終らせてしまうのでなく、メンバーのみんながOKしてくれるなら、これからもぜひまた一緒にいろんなところでやってみたい。女性ばかりのバンドが希望だが、もちろんギターはカオリーニョ藤原さんで。でも、嗚呼、カオリーニョさんは男性。

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