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       The World According to Goronyan


ナカガワゴロウの世界


歌が何処かから来て、何処かへ行く中で歌い続けること。 2010年01月22日(金)

1月16日の土曜日の夜は、両国フォークロアセンターで、マスダ昭哲さんが企画進行役を務めるイベント『Song Workshop 歌は何処から来て何処へ行くのか』のVol.3、特別編に出演した。
 マスダさんは、本好き、活字好きが嵩じてネット古書店の店主となった方で、古くからぼくのことを知っていて、ぼくのライブにもよく来てくださっている。2009年の秋から冬にかけて、オフノートの神谷一義さんが企画したイベント、「講座オフノート 埋み火の記憶を辿る 知られざる『日本フォーク』秘史」や「アーバン・ソング・コレクション2009 オムニバス・コンサート 都市のおと」が豊島区民センターや新宿ゴールデン街劇場で四回行われ、マスダさんはそれに皆勤賞で参加し、その中でぼくとも濃密に接するうち、彼が主宰するワークショップへの出演が決まったのだ。

 ワークショップの会場は両国フォークロアセンター。嗚呼、両国フォークロアセンター!!
 http://homepage3.nifty.com/tokyo-folklorecenter/
 1970年に国崎清秀さんが始めたこの小さなフォークの拠点に、70年代の中頃以降、ぼくはよく歌いに行っていた。しかし80年代に入ってぼくが雑誌の編集の仕事などをし、歌うことから少し遠ざかってしまってからはすっかり足が遠のいてしまい、90年代に入ってまたせっせと歌うようになってからも、また歌いに行く機会には、なかなか恵まれなかった。国崎さんとは、ほかの場所でばったりお会いすることもあったのだが、両国フォークロアセンターでライブをまたやらせてもらうことは、ずっと叶わないままだった。

 それこそ30年ぶりかで足を運んだ両国フォークロアセンター。ぼくがよく歌いに行っていた時は、二階の六畳一間ぐらいのスペースが両国フォークロアセンターで、一階はお蕎麦屋さんだったが、今は一階も両国フォークロアセンターとなっている(正式には一ツ目ギャラリーと呼ばれているようだが)。今回のワークショップは、二階ではなく、お蕎麦屋さんをそのまま居抜きで使った一階で行われる。
 開場前には国崎さんと一緒に二階にあがり、かつてよく歌いに来ていた部屋を見せていただいた。昔とほとんど同じで、部屋の壁やトイレの壁に貼られているポスターやちらしも当時のままで、とても懐かしかった。

 開場は夕方の5時で、開演は6時だったが、5時過ぎからお客さんが集まり始め、開演前には何と満員となる。嬉しい。ワインを持ってやって来てくださった甲府のご夫婦や、富士吉田でぼくのライブをやってくださる、ギャラリー、ナノリウムの中植和彌さん(素敵なフォーク・シンガーでもある)など、遠くから駆けつけてくださった方もいれば、同じ歌い手仲間のさこ大介さん、同じ音楽ライター仲間の青木優さん、高田渡さんのお兄さんの烈さんなど、珍しい人たちが顔を出してくださったかと思えば、いつもぼくのライブに来てくださっている人たちもいて、ぼくとしては嬉しいかぎり。
 両国フォークロアセンター一階の一ツ目ギャラリーは、20人も入れば超満員で、椅子もその数ぐらいしかなく、そんな狭いところと言う人もいるかもしれないが、ぼくとしてはいっぱいの人たちの前で歌えるのがほんとうに嬉しい。気分もめちゃくちゃ昂揚して行く。

 企画進行責任者のマスダさんからは、当日の企画進行書をあらかじめメールしてもらっていた。それによると、まずは館野公一さんが30分ほど歌い、それからマスダさんが聞き手となって、ぼくが関西フォークの話をし、それから休憩をはさんで、ぼくが一時間ほど歌うというもの。
 ぼくとの話の中ではどんなことを聞きたいのか、そして話の流れの中でさわりだけでも歌ってほしい当時の歌はどの曲か、そして後半のライブではどんな曲を歌ってほしいかなども詳しく書かれていた。

 マスダ昭哲さん企画・進行のソング・ワークショップ特別編は、6時ちょっと過ぎに、満員のお客さんを前にして館野公一さんの歌で始まった。
 館野さんはぼくの大好きなフォーク・シンガーのひとりで、これまでにも何度か共演したことがある。彼は自分の十八番の長い物語歌を「語り歌」と呼んでいて、この夜も、「ぶたのごはん」やユージン・スミスのことを歌った「海辺のフォトグラファー」など、名ルシアーの塩崎雅亮さんが作ったシーガルのギターやギブソンの古いマンドリンを弾きながら、語り歌を聞かせてくれ、その見事なストーリー・テラーぶりに聞き手は彼の世界の中にどんどん引き込まれていく。
 館野さんはフリーのライターをしていて、時には主夫でもあるので、もう一曲家事仕事のことを歌った「家仕事」という、ほかの二曲と比べるとうんと短い歌も、マンドリンを弾きながら歌ってくれた。たった3曲だが、それでもう30分。
 館野公一さんとは3月28日に国分寺のgieeというお店でジョイント・ライブをやることになっていて、その時は持ち時間は半分ずつだから、もっとたっぷり館野さんの歌を聞くことができる。ぜひ来てください。実は誰よりも共演者のぼくが館野公一さんの語り歌をたっぷり聞くのを楽しみにしたりしていて…。
(館野公一さんのホームページ http://www.asahi-net.or.jp/~yi7k-ttn/katariuta/
gieeのホームページ http://giee.jp/)

 館野公一さんの歌の後は、マスダさんが聞き手になって、ぼくに関西フォークの勃興時のこと、高石ともやさんとの出会い、高石事務所やURCレコード、アート音楽出版などを手がけ、関西フォークの動きの陰の立役者となっていた秦政明さんのこと、あるいは当時の音楽仲間だった高田渡さんや岡林信康さんのこと、そして1970年代に入ってからの関西フォークの衰退やぼくが被告となった雑誌『フォーク・リポート』のわいせつ裁判のことなど、あらかじめメールで送ってもらっていた質問にぼくが答えるソング・ワークショップが始まった。
 しかし時間は一時間ほどしかなく、マスダさんの質問は結構微に入り細を穿ったりするので、ぼくとしてはできるかぎり丁寧に話をしたが、マスダさんは聞きたいことの半分も聞けなかっただろうし、ぼくとしても言いたいことの半分も言えなかったように思う。
 それでも関西フォークの始まりがどんなだったか、当時の流れや様子を集まってくれた人たちにある程度は伝えられたのではないだろうか。しかし繰り返すが、一時間という時間はあまりにも短すぎる。マスダさんにまた機会を設けてもらって、何度でもたっぷりと話ができたら嬉しい。そしてそれを何かのかたちに纏められたりしたら、とても素晴らしいことになるに違いない。

 10分ほどの休憩をはさんで、8時過ぎからはぼくのライブ。まずは新たに手に入れたばかりのDeeringのギター・バンジョー、B-6を弾きながら、「丸々赤ちゃん」、「お手並み拝見」、「だびよんの鳥」を歌う。ゴールド・トーンのギター・バンジョーも気に入っているが、ディーリングのギター・バンジョーの方がよりバンジョーらしい音が出て、とても気持ちよく歌える。大切に弾き続けたい楽器だ。
 ギター・バンジョーで3曲歌った後は、Haida Gwaiiのギターに持ち替えて、「腰まで泥まみれ」と「カム・トゥ・マイ・ベッドサイド」。このあたりからはマスダさんのリクエストに応じての選曲となる。
 ライブが始まる前に、マスダさんから「タップ・ダンサーの人が来てくれることになっていて、『ミスター・ボージャングル』の時に踊ってもらおうと思っていましたが、嬉しいことに満員でスペースがないから、今夜は無理ですね」と言われたのだが、ぼくは「タップ・ダンサーの人が来ていると思うんですけど」とかまわず呼びかける。すると目の前に座ってぼくの歌を聞いてくれていたバロン中沢さんが立ち上がる。
 せっかく来てくれているのに、絶好の機会なのに、踊ってもらわずに済ませられるかと、ぼくは「何とかスペースを作るから、踊ってください」と、壁際の椅子の上に立ち、それまでぼくが立って歌っていた僅かな場所でタップ・ダンスを踊ってくれるようお願いする。
 椅子の上に立つと、梁のところに貼ってあった今夜のイベントのお知らせの堅い紙がぼくの頭に当って邪魔なので、ベリッと引き剥がす。それでも頭が梁にくっついてしまい、少し前屈みになって歌わなければならない。うーん、厳しい。
 そしてバロン中沢さんにタップ・ダンスを踊ってもらい、館野公一さんにもマンドリンで加わってもらい、「ミスター・ボージャングル」を歌った。この歌をタップ・ダンス入りで歌ったのは初めてで、バロン中沢さんのタッフ・ダンスは、ミスター・ボージャングルことビル・ロビンソンを両国へと呼び寄せてくれ、ほんとうに素晴らしかった。ぼくも思いを込めて、とても熱く歌うことができた。この夜の最高の瞬間だった。

 その後はずっと館野さんのマンドリンと一緒に、「理想と現実」、「イマジン」、「ミー・アンド・ボビー・マギー」の3曲。まったくのぶっつけ本番なのに、館野さんはマンドリンをこれでもか、これでもかと思いきり弾きまくり、「ミー・アンド・ボビー・マギー」のラストでは、ぼくが「ミー・アンド・タテノ・コーイチ」と何度も絶叫し、二人してすごい世界に飛んで行ってしまった。開演前から飲み始めていたおいしい甲府のワインも、熱く盛り上がる上で、とてもいい役目を果たしてくれた。

「ミー・アンド・ボビー・マギー」でぼくは全力を使い果たし、アンコールに応える気力はほとんどなくなってしまい、時間も予定を大幅に過ぎて9時半になってしまったので、みんなで机や椅子を並べ替えて、ワークショップとライブ後に予定されていた懇親会に移る。
 これが会費1000円で、ほとんど飲み放題、食べ放題の素晴らしいもので、みんなで発泡酒ではない本物のビールやおいしい甲府の赤と白のワイン、芋焼酎などをグビグビと飲みつつ、もつ煮や焼きそばなど手作りのおいしいお料理をいただき、隣同士、あるいは大声で遠くの人に呼びかけたりしながら、いろんな話に花が咲き、まさに究極の懇親の集いが11時過ぎまで続いた。それぞれ自己紹介もし合った。
 フォークロアセンターの国崎さんや高田渡さんのお兄さんの烈さんともいろんな話をすることができた。マスダさんはこの夜のためにもつ煮だけでなく、京料理のエビ芋も作って来てくれたのだが、話とワインに夢中になっていて、ぼくはそれを食べそびれてしまった。素晴らしい夜の唯一の失態というか、実に残念なことであった。

 マスダさんからワークショップでどんな話をしたいかメールをいただき、自分でも当時のことを振り返り、あらかじめ整理しておきたいと、古い歌詞カードや楽譜の資料箱を探っていたら、高校生の頃に作った楽譜集が出て来た。
 表表紙も裏表紙もとれていて、中身だけが残ったぽろぽろの楽譜集で、1966年から67年、高校二年生や三年生の時に歌っていた歌の歌詞や楽譜が、20曲ほど書き込んである。懐かしい!!
 その頃ぼくが敬愛してやまなかったフィル・オクスやトム・パクストンの歌を自分なりに訳したものや、当時愛読していた岩波新書の「詩の中にめざめる日本」(1966年出版、編者真壁仁)の中に収められていた詩に曲をつけたもの、それに自分で詞も曲も書いたものなどがある。
 手に取ってページをめくりながら、ギターを手に取り、何曲かは久しぶりに、それこそ40数年ぶりに、ぼそっと歌ってみたりした。マスダさんからは、ワークショップの中で当時の歌をさわりだけでも歌ってほしいとリクエストされていて、そのリクエスト曲の「メドガー・エヴァースのバラード」や「Aちゃんのバラッド」も、楽譜集の中に入っていた。

 43年前のその手書きの楽譜集を見返しながら、ぼくは自分が今もまるで変わっていないことを思い知らされた。何を歌いたいか、何で歌いたいか、どんなふうに歌いたいか、その気持ちや考えは、1966年も2010年の今もまったく変わっていない。
 これはまるで成長していない、まったく代わり映えがしないと嘆くことではなく、むしろそこまで曲げることなく自分を貫いているのかと、誉めてもいいようなことに思える(自分でそんなことを言うのは、ほんとうにあつかましいことだが…)。

 フィル・オクスやトム・パクストンの歌は、「もう戦争には行かない」、「リメンバー・ミー」、「聞こえるのは何だろう」(以上フィルの曲)、「過ぎ去った日々」、「夜が明けたら」(以上トムの曲)など反戦歌が中心で、暗殺された黒人の公民権運動の活動家のことを歌ったフィル・オクスの「メドガー・エヴァースのバラード」もある。
 岩波新書の「詩の中にめざめる日本」の中の詩で曲をつけているのは、ベトナム戦争のことを歌った薩川益明さんの「自由について(の歌)」と、1960年の安保闘争の中で犠牲となった樺美智子さんのことを歌った高橋敬子さんの「前進(貴女がもう笑えないから)」。
 そして16とか17歳の時に自分で書いていたオリジナル曲(!!)は、「浜辺の石」や「乙女の顔」、「坊やおやすみ」、「小さな庭」など、メルヘン調の曲名が目立つ。今見返すと恥ずかしくてたまらないのだが、それでもアメリカのフォーク・ソングに学びつつ、反戦や反差別への思いを、当時のぼくなりに精一杯込めて作ったものばかりだ。

 楽譜集には、どうしてこの歌を作ったのかというぼくのコメントが書かれている曲もある。たとえば「乙女の顔」という歌のところには、「結婚差別にあって自殺した被差別部落の女性の遺稿集『悲濤』を読み、初めて部落なるものの存在を知ったぼく自身の気持ちを歌ったもの」という書き込みがあり、「あの閃光が忘れられようか」という歌のところには、「この歌の『閃光』とは、ヒロシマやナガサキに落とされた原爆の光のことだけでなく、ベトナム戦争でのライフルの煙、その音、リンチで殺されたベトナム解放民族戦線の戦士の胸に突き刺さったナイフ、血の色、竹槍で突き殺された兵隊の裂けた内蔵、戦争の痛ましさすべてなのです。ある人が息子の死を聞いた、そのことを告げに来た人の声を忘れられようか、空襲で殺された母の叫び声を忘れられようか、『戦争』を忘れられようか」、「この歌を聞いて戦争の悲惨さについてみんながもう一度真剣に考えてくれたら、平和への道は縮められるのではないでしょうか」と書いている。

 1960年代後半のあの当時も、反差別やベトナム反戦、それにアメリカの黒人差別のことなど、「ひとごと」、「よそごと」を歌ってどうするんだということをよく言われた。確かに16や17歳で歌っていたぼくの歌は頭でっかちで、中身も薄っぺらくて、夢みたいなことを言っているだけのものだったかもしれない。
 最初は権力を攻撃したり、鋭いメッセージを歌ったり、皮肉たっぷりの歌を歌っていたまわりのフォーク・シンガーたちは、みんな「ひとごと」や「よそごと」を歌うのでなく、「自分のこと」、「自分だけのこと」を歌うようになり、そうした歌がとても持て囃されるようになっていった。
 そして今気がつくと、ぼくは40数年前の歌い始めた頃と、同じ姿勢、同じ志でフォーク・ソングを歌っている。「ひとごと」や「よそごと」を歌おうとするフォーク・シンガーは、ほとんど姿を消してしまっている。1970年代に入って、いわゆる関西フォークの歌い手たちも「自分のこと」を歌うようになり、それはニュー・ミュージックの大きな流れの中に吸い込まれていった。

 しかしぼくは40数年後の今にして改めて思う。「ひとごと」や「よそごと」を「自分のこと」にできなくて、何が愛だ、何がしあわせだ、何が優しさだ、何が思いやりだ。そして誰も歌わなくなってしまったとしても、ぼくだけは「ひとごと」や「よそごと」とされることを「自分のこと」として歌い続けたいと、強く思っている。
 たとえ時代遅れ、化石、頭でっかち、偽善と呼ばれようとも、ぼくは自分の頭と心を激しく揺さぶってくれた、出会った頃と同じフォーク・ソングを歌い続けていく。無器用でもいい。ほとんど顧みられなくてもいい(でも生活はしたいけど…)。1月16日の両国フォークロアセンターの素晴らしい夜の中で、ぼくはそのことを再確認することができた。

 両国フォークロアセンターでのライブの翌日、企画進行責任者のマスダ昭哲さんからお礼のメールをいただいた。
「中川五郎さん、昨晩の両国センター、有難うございました。そしてお疲れ様でした。
 いろんな意味で積年の思いがかなったように思えます。また、当方の不躾な質問にも快くお答え頂き申し訳ありません。
 企画したものが言うのもなんですが、素晴らしいライブとなったかと思います。お客さんも沢山来てくれたし。
本当にご協力有難うございました。まだ夢心地です」
 マスダさんはそう書いて来てくれ、最後は「拙ブログに昨晩のこと早速報告しました。http://masdart.exblog.jp/」で締めくくられていた。

 それで初めてマスダさんのブログの存在を知ったぼくは(それまでチェックしなくてほんとうにごめんなさい)、早速『本の人生 本との人生 末端古本屋雑記帳』というタイトルのそのブログを訪ねてみた。
 そしてぼくは1月16日のソング・ワークシップのために、マスダさんがどれほど真剣に内容のことを考え、そして一人でも多くの人に来てもらえるよう、どれだけ熱心に奔走してくれたのかを知った。12月10日の「うたとは何か 何を唄うか 中川五郎を迎えて考えたい 1月16日のワークショップ開催のための覚え書き」というタイトルの文章では、1月16日のワークショップに向けてのマスダさんの熱い思いが長文で綴られている。
 http://masdart.exblog.jp/13194935/

 恐らく11月の終わりに、両国フォークロアセンターでのソング・ワークシップにぼくを呼ぶことを決めてから、一か月半、マスダさんは東京中をあちこち歩き回り、いろんな人に声をかけ、その努力や熱意のおかげで、1月16日の夜は超満員御礼となったのだ。ほんとうにありがたいかぎりだ。心から感謝します。
 もしかすると数の論理に弱い人は、それで20人ちょっとなのかと嘯くかもしれない。しかしぼくは20人以上の「たくさん」の人に来てもらえたことがすごく嬉しいし、この20数人はとても濃く重く、貴重で大切だと思う。ぼくはこの夜来てくれた人たちに心から感謝する。ぼくの歌に込めた思いがきっと伝わったと信じたい。そしてこの夜を2010年の新たな出発点にして、またこれからも自分のフォーク・ソングをいつまでも歌い続けたい。

 マスダさんのブログを読ませてもらうと、ぼくのことがいっぱい書かれていて、嬉しくも恥ずかしい気持ちになる。特にこれは過大評価しすぎじゃないかと思ったりするところもあるのだが、それでもぼくが今歌で何をしたいと思っているのかを見事に理解してくれていて、それがたまらなく嬉しい。
 もしかして進めたかもしれないぼくの人生の進路を、ぼくが敢えて進まなかったことも理解してくださっていて、このことはこれまでみんなからまったく無視されたり、不思議がられたりするだけだったので、この最大の理解者の出現はほんとうに勇気づけられるし、励みになる。
 ライブの翌日いただいたメールで、マスダさんは「これからもまた何か面白いことができたらと考えています」とも書いてくださっている。ぼくの方でも、またまたぜひ一緒に面白いことを、何度でも、何度でもやりたいと願っている。
 でもお互いからだには気をつけましょうね。

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